第三十七話 初めて知った皆の想い(二)
「旦那様、今日は本当にありがとうございました」
実家を後にした志乃は、隣をゆっくりと歩く花奏を見上げる。
花奏は海風に長い髪を揺らしながら、にっこりとほほ笑んだ。
「そういえば、母とは何を話されていたのですか?」
志乃は先ほどの実家での様子を思い出して、小さく首を傾げる。
皆がきんつばに舌鼓をうっている時、志乃は奥でお茶のお代わりを入れていた。
湯飲みを盆に乗せた志乃がふと顔を覗かせると、花奏は母と何やら話をしていたのだ。
母は溢れる涙を何度も拭い、そんな母に親しみを込めて手を差し伸べた花奏の様子が、とても印象的だった。
花奏は「そうだな」と小さく声を出すと、海沿いに目線を向ける。
空気が澄んだ冬の海は岬がよく見渡せ、常緑樹が茂る山々はこの時期も青々と美しい。
花奏はしばらく考えるように口をつぐんでいたが、ゆっくりと志乃を振り返った。
「お母上は、香織のことを知った上で、志乃を俺の元へ嫁がせると決めたのだそうだ」
「え……? どういうことですか?」
志乃は呆然としたように、目を丸くする。
あの時の志乃の縁談は、これからの生活に途方に暮れていた志乃たち一家に、降って湧いたような話だった。
五木が訪ねて来た時も、縁談の相手が“死神”だとは、母も知らないことだと言っていた。
それがまさか、香織のことを知っていたとは……。
「香織の箏の師匠はな、志乃の師匠と同じ方なのだ」
「お師匠様が!?」
志乃は驚いて声を上げる。
『これも何かの縁。田所先生からお話をいただいた時、志乃を嫁がせるならば、斎宮司様より他はないと思いました。ですから縁談の行方を、お師匠様に託したのです』
母はそう言っていたそうだ。
病に倒れ、自分の身体だけでなく家族の先行きも不安な中、藁をもすがる思いで母が決めた志乃の嫁入り。
それでも母は、大切な娘が少しでも幸せに暮らせるようにと、願っていてくれたのだ。
――私がお師匠様を訪ねた日、お母さんから託された手紙には、そのことが書いてあったのだわ。
志乃は開け放たれた座敷で箏を弾いた日を、懐かしむように思い出す。
「香織が、志乃との縁を、繋いでくれたのかも知れん」
すると花奏が低い声を出した。
「香織様が……」
「あぁ、そうだ。いつまでも過去に閉じこもったままの兄に『いい加減、目を覚ませ』と、言いたかったのかも知れぬな」
花奏がくすりと肩を揺らし、志乃は潤んできた目尻の涙を拭うと、一緒にくすくすと笑い声をたてる。
二人はしばらく肩を寄せ合ってほほ笑み合っていたが、花奏は志乃に向き直ると、まっすぐに瞳を向けた。
「皆に、感謝せねばならぬな」
花奏の声に、志乃は深くうなずく。
「はい。皆さまの想いに支えられたからこそ、私は旦那様と夫婦になれたのですね」
志乃は再び潤みだした瞳を上げると、花奏とほほ笑み合う。
今志乃がこうして花奏の隣を歩けるのは、皆の支えがあったからだ。
志乃の脳裏に、これまでに関わった一人一人の顔が浮かんでいた。
きっと誰ひとり欠けたとしても、この幸せな未来はやってこなかっただろう。
「志乃」
すると花奏がぴたりと足を止める。
「もう一つ寄りたいところがあるのだが、よいだろうか?」
「寄りたいところですか?」
「あぁ、そうだ。志乃とともに行きたいのだ」
志乃は小さく首を傾げていたが、花奏の真っすぐな瞳に、こくりとうなずいた。




