第三十五話 つながる心(二)
昼間の出来事を思い出し、充実した心持ちで顔を上げた志乃は、再び鏡台の鏡を覗き込む。
ほんのり頬を染めた自分に恥じらいながら、うっすらと小指で紅をひき、長い髪をゆるく横で束ねた。
浴衣の襟元に手を当てると、どきどきと脈打つ鼓動は、自分でもその動きがわかるほど、大きく志乃の胸を打っている。
思わず熱くこもった息をこぼした志乃は、鏡に蓋を被せて閉じると、ゆっくりと立ち上がった。
手を伸ばして部屋の明かりを消し、ふと振り返ると花奏の部屋からは、うっすらとほの暗い光が漏れている。
きっと今頃、花奏は志乃が来るのを待っているだろう。
「今宵は、俺の部屋に来てはどうだろうか」
片づけを終えて居間に戻った志乃に、花奏がいつになく熱い瞳を向けた。
志乃は今夜初めて、花奏の部屋に呼ばれたのだ。
次第にどきどきと高鳴る鼓動を感じながら、志乃は部屋を出ると、向かいの花奏の部屋の前で立ち止まった。
「旦那様……志乃です……」
息を吸い、障子の前でどぎまぎと声を出すと、中からわずかに花奏の足を擦る音が聞こえてくる。
しばらくしてスッと音もなく開いた障子の先には、志乃と同じ浴衣に身を包んだ花奏が立っていた。
「あ、あの……旦那様、その……」
目の前に立つ花奏の妙に色っぽい姿に、思わずうつむいた志乃は、緊張してしまい、うまく言葉が出てこない。
そんな志乃の様子にくすりとほほ笑むと、花奏は優しく志乃を抱き寄せ部屋に招き入れた。
「旦那様……」
志乃は思わずぽーっと、麗しい花奏を見上げてしまう。
花奏は志乃の潤んだ瞳を覗き込むと、志乃の顎先を指で持ち上げ、そっと口づけをした。
花奏の香りがほのかに漂い、志乃の鼓動は今までにない速さで叩き出す。
花奏は、そんな志乃の様子に気がついたのか、志乃を優しく包み込むように抱きしめた。
志乃は抱きしめられながら、じっと耳を澄ます。
耳に響くのは花奏の心臓の音だろうか?
トクトクと高鳴るその音は、次第に速さを増している。
――旦那様も、どきどきとなさっているの……?
志乃が小さく顔を上げた時、花奏がゆっくりと口を開いた。
「志乃……。俺は、お前はまだ若く、幼い娘だと思っていたのだ」
「え?」
「でも、今日皆の前で箏を弾く志乃の姿を見て、それは間違いだったと気がついた」
花奏は愛しそうに志乃を見つめると、志乃の髪をそっと指ですくう。
「志乃はとても気高く美しい、立派な大人の女性だったのだ」
「旦那様……」
志乃を見つめる花奏の瞳は熱く、じりじりと今にも溶かされてしまいそうだ。
志乃は吸い込まれるように、その瞳をじっと見つめた。
すると花奏が、まるで困った少年のような顔で眉を下げる。
「志乃、もうよいだろうか? 俺はお前が愛しくてたまらん」
そう口を開く花奏に、志乃の心はきゅっと掴まれたようになる。
いつだって大人の余裕を見せ、冷静でいる花奏も、こんな顔をする時があるのか。
――今日は、いろんな旦那様のお顔を見られて、なんて幸せなの……。
志乃はくすりと肩を揺らすと、腕を伸ばしてそっと花奏の熱い頬に触れる。
「はい、旦那様……」
志乃の声が小さく響いた途端、花奏は志乃を両手で抱え上げた。
「きゃ……」
身体がふわりと浮く感覚に、志乃は思わず軽く悲鳴を上げると、花奏の首元に腕を回す。
浴衣の裾をひらりとなびかせながら、花奏に抱き上げられた志乃は、気がつけば部屋の中央に敷かれた布団に、そっと横たえられていた。
まっさらな布の感触を肌で感じながら、下から見上げた花奏の瞳は、さっきよりもさらに熱を帯びている。
花奏は愛しそうに志乃の髪に触れると、じっと志乃の瞳を覗き込んだ。
「志乃、俺はもう一生、お前のことを離さぬ」
花奏の言葉が直接心に届いて、志乃の全身を巡っていく。
志乃は熱く潤んだ瞳で花奏を見つめた。
「私も、一生旦那様のお側を離れません」
志乃の言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、ほほ笑み合った二人の唇が、吸い寄せられるようにそっと触れ合う。
――あぁ、私は旦那様が愛しくてたまらない……。
志乃は思わず、花奏を求めるように腕を伸ばした。
「志乃……」
花奏の声が耳元で響き、志乃の背に回った腕に力がこめられる。
静かにゆっくりと繰り返されていた唇の重なりは、高鳴る鼓動とともに深く交わり、いつしか熱い吐息を漏らしながら夜の闇に溶けてゆく。
志乃は初めて、花奏の熱を心の奥で感じる幸せに浸りながら、まるで夢に落ちるかのように、その満たされた時間に溺れていった。