第三十五話 つながる心(一)
感動的な祝賀会での演奏を終えた夜、志乃はどきどきと高鳴る胸を抑えるように、自分の部屋でゆっくりと髪をとかしていた。
もう夜も更けて辺りは静まり返り、昼間のあの華々しい時間が嘘だったかのように感じる程だ。
志乃はふと、祝賀会でのエドワードの言葉を思い出す。
宴もたけなわになった頃、エドワードは志乃の隣にやってきた。
「シノ、アリガトウ」
穏やかな表情でほほ笑むエドワードに、志乃は心からホッとする。
一時はこの街や人に絶望し、心を閉ざしていたエドワード。
でも今、そのほほ笑みは明るく、この街を故郷のように思ってくれていた時のエドワードと同じものだった。
「ボクハ、モウ、ダイジョウブ。マタ、ミンナト、ナカマニナレル」
エドワードはそう言うと、志乃の手をぎゅっと両手で握る。
その分厚い手に、志乃は大きくうなずくと、力いっぱい握り返した。
しばらくしてエドワードは顔を上げると、少し離れたところで田所や谷崎たちと会話する花奏に目をやった。
「カナデ、ツライコト、イッパイアッタ」
エドワードの言葉に志乃は「え?」と驚いて顔を上げる。
そういえば花奏が、エドワードは古い友人だと言っていた。
もしかしたら香織のことや、花奏が“死神”と呼ばれていたことも知っているのかも知れない。
驚いたように目を丸くした志乃に、エドワードは口元を引き上げた。
「デモイマハ、シアワセソウ。シノガ、イレバダイジョウブ」
「エドワード様……」
瞳を潤ませる志乃に、エドワードは力強くうなずくと、小さく志乃を手招きする。
エドワードは、首を傾げる志乃の耳元にそっと手を当てた。
「ヤッパリ、シノハ、カナデノタイセツナヒト」
小さくささやくように言ったエドワードの言葉に、志乃は「あ……」と思わず声を出す。
以前、社交界でもエドワードは、同じことを言っていたことを思い出したのだ。
確かあの時も、志乃はエドワードがどういう意味で“タイセツナヒト”と言ったのか気になっていた。
というのも、あの時はまだ志乃と花奏は心を通わせておらず、花奏に妻ではなく“身内の者”と紹介されて、ショックを受けた時だったからだ。
「……あの、エドワード様。その“タイセツナヒト”というのは、どういう意味ですか?」
志乃は伺うようにエドワードを見上げる。
するとエドワードは片目を閉じてウインクしながら、そっと人差し指を口元に当てた。
「シノハ、カナデノ、タイセツナワイフ」
「え……?」
志乃はエドワードの言葉がうまく聞き取れず、大きく首を傾げる。
「大切な……ワ……イフ?」
そう繰り返しながら、志乃は何度も大きく瞬きをした。
エドワードの言葉の意味がわからない。
今更ながら、女学校の外国語の授業を、真面目に受けておけば良かったと後悔する。
――どういう意味かしら? エドワード様は、なんとおっしゃったの?
志乃はしきりに首を傾げるが、エドワードはにこにことほほ笑んだままだ。
すると会話をする二人に気がついたのか、こちらを見た花奏が、ゆっくりと隣にやって来た。
「志乃、どうしたのだ? 随分と難しそうな顔をしているが?」
花奏は自分の眉間を、ちょんちょんと指でさすと、不思議そうに志乃の顔を覗き込む。
志乃は「あの……」と恥ずかしそうにうつむいた。
「実は……エドワード様の、お言葉の意味がわからなくて……」
志乃がもじもじとしていると、エドワードが花奏の肩を小さく叩いた。
「シノハ、カナデノ、タイセツナワイフトイッタ」
エドワードが花奏に耳打ちしたその途端、花奏はギョッとしたような顔をする。
そしてみるみる赤面していくのだ。
「旦那様?」
不思議に思った志乃が声を出すが、花奏は慌てた素振りを見せるだけで、何も言ってくれない。
志乃はさらに訳がわからず頭を振るが、エドワードはというと大声をあげて楽しそうに笑いだしていた。
「それは、言わない約束だったであろう」
花奏はそんなエドワードを軽く睨みつけると、小さく肘で小突いている。
それでも、エドワードは一向に気にせず、楽しそうに手まで叩き出す始末だ。
すると、そんな二人の姿を見て、次第に志乃の心も弾み出した。
――そうよ。きっとあの言葉は、良い意味なのだわ。
志乃はそう自分にうなずくと、珍しく耳まで赤く染めた花奏の顔を見上げる。
それからしばらくは、再び皆で楽しい時を過ごし、エドワードは「また必ずこの街に帰る」という言葉を残し、志乃たちと別れたのだ。