第三十四話 伝えたい想い(一)
「旦那様……」
大きな拍手が鳴り響く中、演奏を終えた志乃は、夢見心地のまま舞台からそろそろと下りると、そのままふらつくように花奏の元に寄る。
「志乃、よくやったな」
花奏はそう言うと、志乃の頭に優しく触れた。
会場の中は、まだ志乃の演奏の余韻に包まれている。
志乃は鳴りやまない拍手に包まれながら、花奏に手を引かれて皆の前に出た。
恥じらいながら志乃が顔を上げると、エドワードは涙を流しながら、まだ大きな拍手を志乃に送ってくれている。
――エドワード様に、ちゃんと思いが伝わったのだわ。
周りの人々と笑顔で会話しながら拍手をするエドワードの顔つきに、志乃は肩の荷が下りたようにほっとした。
すると横から、目を真っ赤にした谷崎の父が、白いハンケチで鼻をかみながら、志乃の前に現れた。
「志乃さん、ここにおられる皆様に、何か一言いってはくれませぬか?」
谷崎の父にうながされ、志乃は戸惑いながら花奏を見上げる。
花奏は優しくほほ笑むと、静かにうなずいた。
「志乃が箏に込めた想いを、そのまま皆に伝えればよいのだ」
花奏に背を押され、志乃は戸惑いながら小さくうなずくと、おずおずと再び舞台に上がり、皆に向き直る。
志乃が前に立った途端、会場内は急に静まり返り、人々は志乃の言葉を待つように、期待のこもった視線を向けた。
「本日は、私の拙い演奏をお聞きいただき、感謝申しあげます……」
声を上ずらせつつも深々と頭を下げた志乃は、しばらく考えた後、緊張しながらゆっくりと口を開いた。
「ご存じの方もおられるかと思いますが……箏には“ゆりいろ”という技法があります。箏は本来であれば譜面通りに弾くことが良しとされますが、この“ゆりいろ”だけは、奏者によるところが大きいのです……」
志乃は一旦口を閉じて顔を上げる。
目の前では志乃の言葉を、花奏がエドワードに訳して伝えてくれていた。
「この世には多くの人がいて、多くの考え方があります。同じ方向を向くこともあれば、時にはぶつかることもあるでしょう……。でも私は、それでいいのではないかと思うのです」
志乃の言葉にエドワードが小さく目を開く。
「 “ゆりいろ”で出す音のゆらぎの幅が奏者によって様々であるように、色々な考え方があっていい。大切なのは、そのゆらぎの幅があることを認め、お互いに歩み寄る。その一歩を踏み出すことなのだと思います」
志乃は目の前の花奏とエドワードに目を向けた。
「私は初めてこの曲を聴いた時に、とても懐かしさを感じました。そしてそう思った時から、この曲は私の心の故郷の曲になりました。この曲で歌われた場所が、実際に自分の故郷なのかは関係ないのです」
志乃の言葉に、エドワードが震えながら目頭に手を当てるのが見える。
「懐かしいと思える曲が、場所が、人が……あなたの故郷なのです。だから、いつでも帰ってきていい。そして私は、いつでも手を広げて待っていられる人になりたい。そう思っています」
志乃の言葉に、会場内はしーんと静まり返る。
今心にあることを全て言い切った志乃は、皆の顔つきに慌てて下を向いた。
演奏を終えたその高揚感から、自分の想いをまとまりなく、そのまま伝えてしまったことに、今更ながら後悔する。
――私ったら、皆さまの前で、なんと偉そうなことを、朗々と述べてしまったのかしら……。
志乃が泣きそうな顔で花奏を見つめると、花奏は何度もうなずき目尻の涙を拭った後、ゆっくりと手を叩き出した。
するとそれにつられるように、谷崎と唯子が歓声を上げ、手を叩き出す。
谷崎の瞳は涙で潤み、唯子は感動したように瞳をキラキラと輝かせていた。