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第三十三話 故郷の曲(二)

「そろそろ時間ですが、どうされますかな?」


 谷崎の父に声をかけられ、志乃は顔を上げると、奥の扉を見つめた。


 まだ花奏とエドワードはこちらには来ていない。


 もしかしたらエドワードが人前に出ることを恐れ、頑なに拒否しているのかも知れない。



 志乃はぐっと両手を握り締めると、谷崎の父に顔を向ける。


「始めていただけますでしょうか」


 その声にうなずくと、谷崎の父は周りに指示を出し、演奏会が始まる旨を来賓客に伝えた。



「志乃さん、しっかり」


「お姉さま、がんばって」


 谷崎と唯子に見守られながら、志乃は舞台の前に立つ。


 目を閉じて一旦大きく息を吸った。



 志乃が立つ舞台の後ろでは、弦楽器やピアノなどのサロン奏者たちが静かに待っている。


 志乃が演奏できるのは一曲のみ。


 それが終われば、当初予定されていた奏者たちが、演奏を始めることになっていた。



 ――たとえ会場に来なくてもいい。ほんの一節でも、エドワードさんの耳に届いて欲しい……。



 志乃は心の中で願うようにそうつぶやくと、そっと目を開ける。


 そして多くの人が見つめる中、静かに舞台に上がった。



 志乃は着物の裾を抑えながら慎重に階段を上る。


 周りよりも高い舞台は、緊張も相まって思わずめまいがしそうだ。


 次第に心臓はどきどきと激しく脈打ちだし、突然現れた志乃を見る人々の視線が、全身に刺さるように感じた。



 思わずふらつくように腰を下ろした志乃は、大きく震え出した手を無理やり弦にかける。



 ――さぁ、弦を(はじ)くのよ、志乃。



 心の中で自分に声をかけるが、それでもなかなか最初の一弦を弾き出すことができない。



 ――あぁ、旦那様……。緊張で指が動きそうにありません……。



 つい志乃が嘆きそうになった時、しーんと静まり返った会場の、奥の扉がカチャリと開く音が響いた。


 その音に顔を上げた志乃は、現れた顔を見て、はっと息を吸う。



 そこから姿を見せたのは花奏だ。


 花奏はまっすぐに志乃を見つめると、優しくほほ笑んでいる。


 その顔は、いつも離れで志乃の箏を聴くときの優しい顔。


 志乃が愛してやまない、花奏の笑顔だ。



 ――あぁそうよ。旦那様は、私に本当の笑顔を見せていてくれていた。いつも優しく、私を愛で包んでくれていたのよ。



 花奏が見守ってくれているなら、自分はどんな時でも強くなれる。


 志乃は花奏にうなずき返すと、急に気持ちを落ち着けたように箏に向き直る。


 そしてふうっと息を吸い、最初の一弦を、心を込めて弾いた。



 しかし志乃の演奏が始まると、途端に周りで聴いていた来賓客がざわつき出す。


 思い描いていた箏曲(そうきょく)とは全く違う旋律に、皆が戸惑っているようなのだ。


 谷崎や唯子も目を丸くし顔を見合わせているが、花奏だけはずっとほほ笑んだままだ。



「何の曲かしら?」


「さぁ? でもなぜだか懐かしいわ……」


 ざわつきに混じって、そんな声が聞こえてくる。


 志乃は指を動かしながら“懐かしい”という言葉に、涙が込み上げてくるのを感じていた。



 志乃がエドワードのために、どうしても弾きたいと思った曲。


 それはエドワードの故郷の曲“ローモンド湖”だった。


 軍楽隊の演奏会と社交界で二度聴いただけだったが、その旋律は深く志乃の心に残っている。


 志乃は昨夜、その旋律を思い出しながら、花奏が見守る中、離れでずっと練習していたのだ。



 曲の一番を弾き終わり、二番に演奏が入った時、志乃ははっとする。


 志乃の箏に合わせて、後ろのサロン奏者たちが伴奏を奏で出したのだ。


 途端に重厚感を帯びた演奏は、次第に人々のざわつきをしずめ、いつの間にか皆が曲に引きこまれるかのように、聴き入りだしている。



 曲が三番に入った。


 誰もが静かに揺れる水面(みなも)を心に描き、故郷の街の情景を思い浮かべた時、今度はどこからか歌声が聞こえてきた。


 志乃が息をのみ会場の後ろに目を向けると、そこにはエドワードが立っている。


 エドワードは涙を流しながら、花奏の肩を組むと、舞台の前へとやって来た。


 見ると花奏もエドワードと共に歌を口ずさんでいる。



 言葉の違う二人の歌声は会場を包み込み、いつしかそれに合わせるように、皆が口々に唄い出した。


 会場内のひとりひとりが、己の心の音色で奏でるその歌声は、大きなうねりとなって、いつしか天高く響き渡る一つの音楽になっていく。



 ――なんて、素晴らしいの……。



 そして皆が感動の余韻に浸る中、志乃の演奏は終了したのだ。


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