第三十三話 故郷の曲(一)
次の日、志乃は緊張した面持ちで、静かに祝賀会の会場に立っていた。
谷崎邸の新年の祝賀会は三が日の間続くようで、今日はその中日にあたる。
まさか昨日、あんな事件があったのが嘘のように、食事や歓談を楽しむ人々の顔つきは陽気だ。
以前志乃が社交界に参加した時と同じように、会場内は煌びやかに飾り立てられ、新年を祝うべく用意された品々は一層華やかに見える。
志乃はそっと顔を上げると、会場の奥の扉に目をやった。
今はあの奥の部屋で、花奏がエドワードを説得しているはずだ。
事件の後、怪我の処置を受けたエドワードは、そのまま田所が付き添い、谷崎邸にとどまっていた。
昨日、志乃と話をした花奏はすぐに谷崎邸に赴き、谷崎とその父親に志乃の案を伝えた。
「今更、何をしても無駄だろう」と、谷崎の父は嘆いていたそうだが、谷崎の強い説得もあり、しぶしぶ志乃の演奏を受け入れることになったのだ。
志乃は着々と用意される、前の舞台に目をやる。
今日は元々邦楽器の演奏を予定していたため、高さのある舞台が用意されていた。
そこへ今は、志乃の箏を置いてもらっている。
志乃が持ってきたのは、もちろん香織の箏だ。
正直志乃は香織とは違い、今までこのように大きな会場で、多くの人に見られながら箏を演奏した経験など一度もない。
だからこそ、香織の箏を使わせてもらうことで、少しでも勇気を分けてもらえる気がしたのだ。
志乃はふと、昨夜の花奏との会話を思い出す。
志乃が演奏会で箏を弾きたいと言った時、花奏ははじめ酷く驚いたような顔をしていた。
「志乃の箏が素晴らしいことは、俺も十分承知しているはずだ。だが、箏を演奏して、どうしようというのだ?」
困惑したように声を出す花奏に、志乃はまっすぐに顔を上げる。
「私に一つ、考えがあるのです」
「考え?」
「はい。きっとエドワード様になら、伝わると思います」
「どういうことだ?」
訳がわからない様子で首を振る花奏の腕を、志乃は両手でぎゅっと握り締めた。
「故郷を大切に思われているエドワード様だからこそ、この街もあなたの故郷なのだと伝えたい。いつでもあなたの帰りを待っていると、伝えたいのです」
「それを箏の演奏に込めるというのか?」
「はい、そうです。エドワード様になら、きっと届くはずです」
志乃の迷いのない瞳に、しばらく花奏は驚いたように目を丸くしていたが、急に声を上げて笑い出した。
「やはり、志乃は面白い娘だ。何をしでかすか、俺には想像もつかぬ……」
くすくすと笑う花奏の言葉の意味がわからず、志乃は小さく首を傾げる。
「旦那様?」
志乃が聞き返そうとした時、花奏は静かに立ち上がると、志乃の腕を優しく引いた。
「きゃっ」
軽く悲鳴を上げた志乃の身体は、そのまま花奏の胸にきつく抱きしめられる。
「だ、旦那様……どうされたのですか?」
戸惑って声を上げる志乃に、花奏はくすりと肩を揺らすと、愛おしそうに志乃の頬に優しく指先で触れた。
「でもそれが、俺が愛する志乃の魅力なのだ」
花奏のささやくような声に、志乃は途端に目を丸くする。
「旦那様が……愛する……私……」
志乃は幸せを噛みしめるように、花奏の愛の言葉を繰り返した。
すると花奏は、にっこりとうなずいて志乃の顔を覗き込む。
「志乃の思うようにすれば良い。俺はいつでも、お前を見守っておる……」
花奏の包み込むような言葉を聞きながら、志乃ははじめて気がついた。
――あぁきっと、今までもそうだったんだ。旦那様に見守られていたからこそ、私は自分の思うようにしてこられたのだわ。
志乃は顔を上げると、いっぱいの涙で潤んだ瞳でうなずき返す。
そんな志乃に優しく口づけると、花奏は再び力強く抱きしめてくれたのだ。
「志乃さん」
昨夜のことを思い出していた志乃が、はっと我に返ると、谷崎が唯子と手を繋いでこちらにやってくるのが見えた。
「谷崎様、唯子ちゃん。来てくれたのですか?」
志乃の声ににっこりとほほ笑むと、唯子は「お姉さま」と言って志乃にぎゅっと抱きつく。
「どうしても唯子が、志乃さんの箏を聴きたいと言って」
「まぁ、唯子ちゃんありがとう」
志乃が腰をかがめると、唯子はにっこりとほほ笑んだ。
「お姉さま。唯子はお姉さまを応援しております」
「唯子ちゃんにそう言ってもらえたら、百人力だわ」
志乃が笑いながら拳を握った時、谷崎の父が顔を覗かせる。




