第三十二話 志乃の提案(二)
「エドワード……」
花奏が声をかけると、エドワードの肩がわずかに揺れる。
エドワードは窓の外を見つめたまま、何も答えなかった。
花奏が隣に立ち、だいぶ時間が経った頃、エドワードはぽつりぽつりと声を出した。
「ヤハリ、ワカリアエナイ……」
「え?」
「ボクト、カナデノ、フルサトハチガウ……」
戸惑う花奏に、エドワードは揺れる瞳を向けたそうだ。
花奏は湯飲みに口をつけると、隣に立つ志乃を見上げた。
「聞いた話によると、エドワードを切りつけた将校は、前々からエドワードを目の敵にしていた節があったそうだ」
志乃は小さく息をのむ。
「今回も、些細な生活習慣の違いでエドワードを挑発しようとしたが、軽くあしらわれたことに激高したようだと……」
「そんな……」
「エドワード自身は、この件を大事にする気はない。それだけが、せめてもの救い……。ただ……」
花奏は拳を握り締めると、重くドンと机を叩いた。
「ただ、この街を故郷のように慕っていたエドワードが、この街や人に失望して帰国することになるなど。それが俺は悔しくてたまらんのだ……」
声を震わせる花奏の姿に、志乃は胸が苦しくなる。
自分の故郷とこの街を重ね合わせ、大切に思ってくれていたエドワード。
このまま帰国すれば、もう二度と、この街には戻って来てはくれないだろう。
そのことがどれだけ花奏にとっても悔しいことか、痛いほど志乃にも伝わってきた。
「どうにかエドワード様が、この街に少しでも希望を持って、帰国していただくことは、できないものでしょうか?」
志乃が潤んだ瞳を上げると、花奏が小さく息をつく。
「難しいかも知れん。話すら出来ぬのだ。心を閉ざしたように、ほとんど目も合わせてくれなかった」
志乃の頬を涙が伝う。
どうにかして、傷ついたエドワードの心の隙間に、入ることはできないものか。
志乃が考えあぐねていると、花奏が「そういえば……」と口を開いた。
「どうも谷崎殿の話では、明日は祝賀会にて、エドワードのために邦楽器の演奏会を予定していたそうなのだ」
花奏の言葉に、志乃ははっと顔を上げる。
「エドワードはこの国の音楽に、興味を持っているからと企画したそうだ。ただ、今の状況を考えると、とても参加するとは思えんが……」
「旦那様!」
志乃は花奏の言葉を遮るように声を出すと、勢いよく花奏の腕を両手で掴んだ。
「志乃?」
「私に……祝賀会で私に、箏を演奏させてくださいませんか」
「何を言っておる。エドワードが参加する保証はないのだぞ」
花奏は驚いたように志乃を見つめながら、大きく首を横に振る。
「旦那様、お願いです。それでも、私に演奏させてくださいませ。このまま何もせずに見送るなど……私は悲しくてたまらないのでございます」
花奏はしばらく驚いたように、じっと志乃を見つめていたが、ふっと笑みを見せると静かにうなずく。
「それもそうかも知れぬ。志乃の言うとおりだ。何もせずに見送るだけなど、いつまでも心が残る……。よし、すぐ谷崎殿に伝えよう」
花奏の声にぱっと顔を上げると、志乃は大きくうなずき返した。