第三十話 新しい年のはじまり(二)
「志乃様!」
大きな声で志乃を呼んだ五木は、志乃と花奏の手を取ると、声を上げておいおいと泣き出したのだ。
「五木さん、どうされたのですか?」
志乃は訳がわからず戸惑ったままだったが、花奏はほほ笑みながら、五木の背を何度も優しく撫でていた。
「五木も年を取って、些細なことにも、涙もろくなったのであろう」
部屋に入ってから、花奏はそう笑っていたが、そう話す花奏の瞳も潤んでいるように見えたのは、見間違いではなかったと思う。
もしかしたら、花奏が着のみ着のままの姿で、志乃を迎えに来たことと、何か関係があるのかも知れないとも思ったが、志乃はそれ以上は何も聞かなかった。
それよりも、こうやって自分の帰りを待ってくれている家族がいることが、何よりも嬉しかったのだ。
「旦那様、少し遅いですが、ケーキをお召し上がりになりませんか?」
唯子から受け取った箱を掲げた志乃の明るい声に、花奏は嬉しそうにほほ笑んだ。
そして三人で食べたクリスマスプディングは、とても甘くて優しい、家族の味がした。
ぼんやりとクリスマスの晩のことを思い出していた志乃は、廊下を歩く花奏の足音に、はっと顔を上げる。
「旦那様、おはようございます……」
炊事場に顔を見せた花奏に、志乃は恥じらうように、頬を赤らめて声を出した。
志乃が見上げると、いつもより遅く起きてきた花奏は、やや気だるさの残る笑顔を見せている。
その姿が妙に艶っぽく、志乃はまたドキドキと鼓動を早くした。
花奏は志乃と五木に挨拶の言葉をかけると、土間に下り志乃の手元をそっと覗き込む。
「だて巻きか……。久しぶりだな」
身をかがめた花奏の着物の袖がかすかに触れ、志乃の心臓が飛び跳ねた。
「だて巻きは、志乃様のお手製ですぞ」
すると、かまどに火をくべていた五木が、背中越しに声を出す。
「ほお、志乃が?」
花奏の驚いたような声に手を止めると、志乃は重箱に詰めていた、だて巻きを花奏に差し出した。
「……出来栄えは、いかがですか?」
「うむ、美味しそうだ」
にっこりとほほ笑んだ花奏に、志乃はほっとして笑顔を見せる。
「だて巻きは、女学校でも教わっていたので、作らせていただいたのです。旦那様のお口に合えば嬉しいのですが……」
すると上目遣いで見上げる志乃に、花奏がそっと口元を寄せた。
「では早速、味見してみたいものだな」
「え? お味見ですか?」
見ると花奏は、そっと自分の唇を指さしている。
「だ、旦那様ったら……」
志乃は途端に顔を真っ赤にすると、だて巻きを箸で重箱から取り出し、小皿に置いて小さく分けた。
「ど、どうぞ……」
志乃は五木の目を盗むように、そっと花奏の口元に箸を差し出す。
――あぁもう、恥ずかしすぎてたまらないわ……。
耐え切れず目を閉じた志乃の手に、花奏がぱくりと箸を咥えた感触が伝わった。
「きゃっ」
思わず叫び声を上げて目を開けた志乃の前に、花奏の美しい顔が飛び込んでくる。
「とても良い味だ」
花奏は志乃を見つめると、優しく口元を引き上げた。
――あぁ、私はなんて幸せなの……。
めまいで倒れそうになる志乃の後ろでは、五木のフォッフォッとという笑い声が、いつまでも響いていた。




