第三十話 新しい年のはじまり(一)
「志乃様、そちらの棚にございます重箱を、取ってくださいませんか?」
炊事場で小さく欠伸をしていた志乃は、五木の声にはっと我に返ると背筋を伸ばす。
恐る恐る顔を上げると、五木は志乃にじっとりとした視線を向けていたが、顔を逸らしフォッフォッといつもの笑い声をあげた。
年が明け、志乃たちは穏やかな新年を迎えている。
今朝は早くから五木と共に、正月の料理を準備しているところだ。
「昨夜は遅くまで、居間の明かりがついていたようですが?」
すると五木が、雑煮の汁の味見をしながら声を出した。
「は、はい……。旦那様と除夜の鐘を聞いておりました……」
志乃は昨夜の、花奏と二人きりで過ごした時間を思い出し、頬をぽっと染める。
昨夜は、雪を見ながら晩酌をする花奏につき合って、志乃も夜遅くまでずっと花奏の側にいた。
時折、花奏の指先が志乃に触れ、その度にドキリと大きく心臓が跳ねる。
花奏はそんな志乃を楽しむように笑うと、美しく透き通った瞳を何度も覗き込ませた。
そして花奏に優しく抱き寄せられ、そっと触れるように唇が重ねられる度に、志乃はついに花奏と夫婦になれたのだと、心の底から満たされたのだ。
志乃は、花奏の柔らかな唇の感触を思い出し、思わず熱くこもった息をもらす。
――旦那様にもっと触れたい……。
花奏と想いを通わせたあの日以来、志乃の中でその気持ちはどんどん大きく膨らんでいる。
こんなことを思うのは、はしたないだろうか。
一人自分の部屋で夜を越すたび、志乃はそんな事を考えてしまうのだ。
「志乃様。手が止まっておりますぞ」
すると途端に背後から厳しい声が飛んできて、志乃は無意識に触れていた自分の唇から指を離すと、慌てて背筋をピンと伸ばした。
「ひゃっ、は、はい」
志乃は大袈裟に返事をすると、急いで黒々とした漆の重箱を、乾いた布で拭いていく。
忙しなく動いていた五木は、フォッフォッと笑いながら、慣れた手つきで志乃が置いた重箱に、数の子や田作り、かまぼこを詰めていった。
「正月を祝うなど、何年ぶりでしょうか……」
しばらくして、五木が手を動かしながら、しみじみと声を出す。
「そうなのですか?」
志乃は小さく首を傾げた。
「えぇ、もう何年も正月はしておりません。再びこの重箱を開く日が来るなど、思ってもみませんでしたぞ……」
泣いているのか、五木は目を何度もしばたたかせると、そっと鼻をすする。
志乃は、今は彩り豊かな料理が盛りつけられた重箱に目を向けた。
香織が亡くなって以降も、この家では毎年、何人もの人が亡くなってきた。
当然、正月は喪に服し、花奏と五木は二人で静かに過ごしていたのだろう。
「今年は私も一緒に新年を迎えられて、とても嬉しいです」
志乃が潤んだ瞳を上げ、にっこりとほほ笑むと、五木は何度もうなずきながら手ぬぐいで涙を拭った。
志乃はそんな五木の顔を見ながら、谷崎の屋敷から戻った日のことを思い出す。
あの晩、車から降りた志乃と花奏が庭先に姿を見せると、五木は転びそうになりながら、土間から飛び出してきた。




