第二十七話 気がついた心(四)
静かな時間が流れ、辺りは次第に薄暗くなりだしている。
花奏は五木の身体を支えるように起こすと、花奏の腕を掴んでいる手をそっと離した。
「五木、言うとおりにしろ」
花奏の低く苦しげな声が響き、五木ははっと顔を上げる。
そのまま五木は「うっ」と涙に声をつまらせると、丸い背中を一層丸めて、静かに花奏の部屋を後にした。
どれほど時間が経ったのだろう。
明かりもつけずに部屋に立ち尽くしていた花奏は、あたりが真っ暗になっていることに気がついた。
廊下に出ると屋敷の中は、物音ひとつせず、暗く静まり返っている。
普段ならばこの時分には、炊事場から味噌汁や焼き魚の香ばしい匂いに混じって、志乃と五木の楽しそうな声が聞こえてくる頃だろう。
しかし今日は、この屋敷自体が死んでしまったように、何の気配も感じさせなかった。
花奏は、先ほど覗いたガラス戸に手をかける。
あれから降り続いた雪は庭の草木を一面覆い、まるで眠りについたかのように、すべての音を飲み込んでいた。
花奏は力を入れると、ガラス戸を横に引く。
その途端、身を凍らせるような冷たい風が吹き込んできて、花奏を包み込んでは去っていった。
一瞬目を細めた花奏は、再び目線を上げた先に、あの離れが見え、はっと息を止める。
「旦那様」
その瞬間、まるで隣でほほ笑んだかのように、志乃の声が耳元で響いた。
それは穏やかな、日の光を浴びたような、箏の音色のように優しい声……。
「志乃……」
花奏はたまらずに、志乃の名を呼ぶ。
このまま志乃が谷崎の元にいけば、花奏があの離れで、志乃の箏を聴くことは、もう二度とないだろう。
香織の形見の箏と共に過去に閉じこもっていた花奏に手を差し伸べ、花奏が香織の旅立ちを受け入れられるきっかけを作った志乃の箏の音は、二度と花奏の元では響かないのだ。
二人で過ごした穏やかな日々が、二度と訪れることはないのと同じように……。
「志乃……」
再び志乃の名を呼んだ花奏は、ぐっと拳を握り締める。
これで良いのだと、散々自分に言い聞かせていたはずだ。
それなのに……。
「人を愛するということは、こんなにも苦しいものなのか……」
花奏は、ふいに口を突いて出た自分の言葉に、動揺したように瞳を揺らす。
そして、自嘲するように、小さく息を吐いた。
――あぁ、そうか。やっと気がついた。
自分には、志乃を失うことほど、恐ろしく怖いものはなかったのだ。
だからこそ、失う前に必死に手を離し、自ら逃げ出そうとしていたのだと……。
――志乃は初めから、目を逸らさずに、俺の事だけを見ていてくれたというのにな……。
花奏は何かを決心したかのように顔を上げると、そのまま廊下をまっすぐに進む。
「旦那様? いかがなさいました……?」
花奏の足音に気がついた五木が、慌てて土間に出てきたが、花奏は脇目も振らずに下駄を履くと、そのまま外へと飛び出した。
「旦那様! お待ちください!」
五木が慌てて追いかけようとするが、花奏はすでに外の門をくぐっている。
「その様な格好では、風邪をひいてしまいます……」
背中で五木の声が聞こえた気がしたが、花奏はただ前だけを見つめて駆けだしていた。




