第二十七話 気がついた心(三)
「旦那様!」
しびれを切らした五木が、三度目に声を上げた時、ようやく花奏は重い口を開いた。
「谷崎殿は、志乃を……」
「志乃様を?」
「もう、ここには戻さぬと書いてある」
「え……ど、どういうことでございますか!?」
五木は叫び声を上げると、花奏の前に両手をついて身を乗り出した。
「谷崎殿は、志乃をこのまま自分がもらい受けると言っておる」
「な、なんですと!? もらい受けるとは……まさか谷崎様は、このまま志乃様を妻に迎えると、そう言っているのでございますか!?」
五木は信じられない様子で愕然とする。
花奏は額に手をあてると、谷崎の手紙を心で繰り返す。
“僕はもう、あなたのことで泣く志乃さんを、見たくはありません”
花奏は今朝、ここを出かける際に見せた、志乃の笑顔を思い出す。
まさか志乃が、自分との関係で、人に涙を見せるほど思い悩んでいたとは思わなかった。
志乃のためと思い、関係を進めずにいたことが、逆に志乃を傷つけていたというのだろうか。
その時、五木が再び身を乗り出した。
「犬や猫ではあるまいし、そんな事できるはずがないではありませぬか。そもそも志乃様は、旦那様の妻なのです。これでは志乃様をさらったも同然。たとえ谷崎様と言えど、許されるはずがございませぬ!」
五木は怒りで我を忘れたように、何度も机を両手で叩いている。
花奏は椅子の背に身をあずけると、目を閉じたまま天井を仰いだ。
――ついに、その時が来た。それだけの事だと思えばよい……。
花奏は自分に言い聞かせる。
今までもこの家に来た者は、誰一人の例外もなく花奏の元を去っていった。
皆、花奏を残して死んでいき、花奏はそれを見送ってきた。
――志乃も、そうだった。それだけの事だ……。
花奏はゆっくりと瞳を押し開けると、ぼんやりと滲みだす天井を見つめる。
――志乃は死んだのではない。求められて、この家を去るのだ。むしろ喜ばしいことではないか。
谷崎は、今は少尉の階級だが、今後軍の主要人物になることは目に見えている。
まだ若く正義感に溢れる青年は、志乃を慈しんでくれるだろう。
それに加えあの大富豪の父親がついていれば、志乃だけでなく母や妹たちにも贅沢をさせてやれる。
花奏は姿勢を正すと、怒りに震えている五木を落ち着かせるように、静かに口を開いた。
「雪も深くなるゆえ、運転手にはもう帰って良いと伝えろ」
「だ、旦那様……」
「志乃の荷物は、追って届ければよい」
目を逸らした花奏の腕を、こちらに回り込んできた五木の、しわだらけの手が必死に掴む。
「旦那様、いえ、坊ちゃん! 何を考えておいでなのですか。まさか志乃様を、本気で谷崎様の元へやると、そういうおつもりなのですか!?」
五木は目に涙を溜めながら、花奏の腕に縋りつく。
「志乃様は騙されているのです。運転手を戻したこととて、谷崎様に何か言われたに違いありません」
花奏の腕を何度も振る五木の目から、涙の粒が溢れ出した。
「坊ちゃん、迎えにお行きなさいませ。どうか志乃様を……志乃様を、連れ帰って来て下さいませ……」
五木は消え入るような声でそう言うと、膝からがくんと畳に崩れ落ちる。
すすり泣く五木の声を聞きながら、花奏は再び目を閉じた。