第二十六話 優しい人(一)
バルコニーに出ると、途端にヒュッと冷たい風が頬にあたる。
それでも厚手のドレスを着て、熱気のこもる室内にいたからか、その冷たさが逆にとても爽快だった。
谷崎の言った通り、ここからは庭だけでなく敷地の全体が見渡せる。
中央に立派な噴水の置かれた西欧風の庭園の奥には、母屋と思わしき洋館がもう一棟建っており、煌々と照らす明かりがその財力を物語っているようだった。
「寒くはないですか?」
手すりに手をかける志乃の隣に谷崎が立つ。
「いいえ、心地よいくらいです」
志乃がほほ笑むと、谷崎は嬉しそうに笑った。
「そういえば、まだお名前をお聞きしていなかったですね。僕は谷崎孝太郎と言います」
「あの、私は志乃と申します」
「志乃さんか。素敵な名前だな……」
つぶやくようにそう言った谷崎の瞳に、志乃は戸惑って下を向く。
すると静かなバルコニーには、会場の中の人々の楽しそうな声や音楽が漏れ聞こえてきた。
「谷崎様は、中に戻らずにいて大丈夫ですか?」
志乃がドギマギとしながら声を出すと、谷崎は小さく首を振った。
「今日は社交界に、顔を出しに来ただけなんです。僕は、父の仕事には関わっていませんから」
谷崎は手すりに寄りかかり、身を乗り出すようにすると、潮の香りを感じるように深呼吸をしている。
「お父さまのお仕事は、お継ぎにならないのですか?」
これだけの力を持っている父がいながら、なぜ谷崎は海軍に入ったのだろう?
志乃は不思議に思い声を出した。
「僕に商売は向いてないんですよ。僕は幼い頃からこの港町が好きでした。だからこの街を、この街に住む人々を守る軍人になることが、幼い頃からの夢だったんです」
「夢……?」
「えぇ。父はなかなか許してくれませんでしたが、反対を押し切って、海軍兵学校に入ったんです」
瞳を輝かせて声を出す谷崎に、志乃は驚いたように目を開く。
谷崎の夢を語る言葉が、とても新鮮な響きとして志乃の中に残った。
「志乃さんは、何か夢をお持ちですか?」
突然谷崎が志乃を振り返り、志乃はドキッとして下を向く。
「夢……なんでしょう……」
志乃はじっと考え込む。
改めて聞かれると、自分は今まで“夢”というものを、考えたことがなかったのだと気づかされる。
「お恥ずかしいのですが、私は今まで、夢について深く考えたことがありませんでした。一つだけあるとすれば、箏の練習は、熱心に励んでいた、ということくらいです」
志乃は小さく肩をすくめた。
「あぁ、箏ですか!」
すると谷崎は、志乃に大きくうなずきながら声を上げる。
「だから唯子の箏爪を直すのも、お上手だったのですね」
納得したような谷崎に、志乃ははにかむようにうなずいた。
二人の間を静かな風が流れ、志乃はふと、先ほど谷崎が廊下で言っていたことを思い出す。
「あの、そういえば、私を探されていたと、おっしゃられておりましたが?」
志乃は小さく首を傾げながら谷崎を見上げた。
その途端、谷崎は顔を真っ赤に染め、照れたように頭に手をやる。
「あ、いや、その……」
谷崎はしばし口ごもった後、真っ赤な顔を志乃に向けた。
「白状します。僕はもう一度、あなたと話がしたかったのです。今日ここへ来たのもそのためです」




