表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/84

第三話 風がはこんだ音色(一)

「お母さんったら、どうしたのかしら?」


 次の日、志乃は妹たちを小学校へやると、その足でお師匠様の元を訪ねた。


 お師匠様のお屋敷は高台にあり、そこへ続く坂道を上った開けた場所からは、港と大きな海が一望できる。


 志乃は潮風に着物の袖を揺らしながら、レンガ造りの塀が続く通りを進み、ゆっくりと緩やかな石段を上って行った。



 しばらくすると、ボーっという汽笛が響き渡り、ふと振り返ると港に大きな軍艦が一隻停泊しているのが見える。


 その近くでは白いセーラー服に身を包んだ水兵さんが、列をなして行進していた。


 志乃はしばらくその様子を眺めた後、再び足を運びだす。



 今日は母に言われて、持っている中で一番華やかな、銘仙の着物を着てきた。


 なぜ母が(かたく)なにそう言ったのかはわからなかったが、志乃も赤や黄の華やかな着物の柄に、久々に心が晴れやかになった気分になる。


 時折、軍楽隊(ぐんがくたい)が奏でる軽快な行進曲が、風にのって耳元に届き、志乃はそのマーチに合わせるように階段を上りきった。


 すると石段の最上段で、ふうと息を整えた志乃は、お屋敷の前を見て目を丸くする。


「お師匠様?」


 お師匠様は誰かを待つように、立派な門の前で行ったり来たりしているのだ。


「今日私が訪ねて来ることは、ご存じだったのかしら?」


 志乃は不思議に思いながら小さく首を傾げる。



 それにしてもお師匠様が外に出ているなんて、今までにないことだ。


 いつだって厳しい顔をして、箏の前に座っている方なのに。



 すると志乃の姿を見つけたお師匠様は、「あぁ」と軽く手を上げながらにっこりとほほ笑んだ。


「志乃さん、良く来ましたね」


「お師匠様、ご無沙汰しております。お稽古をお休みしてしまい、申し訳ありません」


 志乃はお師匠様に駆け寄ると、そっと頭を下げる。



「いいのですよ。それより、この度は大変でしたね。お母様の具合はいかがですか?」


「はい。体調は良かったり、悪かったりを繰り返しています。でも田所先生が、本当に良くしてくださって、今のところは皆なんとか過ごせています」


「そう、田所先生が……」



 そこで志乃は母から持たされ手紙があったことを思い出した。


「あの、母からお師匠様宛の手紙をあずかりました。こちらです」


 志乃は慌てて風呂敷包みから手紙を取り出すと、お師匠様に手渡す。


 お師匠様は手紙を受け取ると、その場ですぐに目を通しだした。


「そう……かしこまりました……」


 お師匠様はそっと目頭を押さえると、母の手紙に応えるように小さく声を出す。


 そしてにっこりとほほ笑んだあと、不思議そうな顔をする志乃を中へ招き入れた。



 志乃は門をくぐった途端、再び小さく首を傾げる。


 いつもお稽古で通っていた時とは、何か雰囲気が違うのだ。



「今日はね、とてもお天気が良いでしょう? ですから障子をすべて取り払ったのです」


「え? 障子を?」


 志乃が見ると、大きな庭に面した座敷は開け放たれ、奥まで見渡せるようになっている。


 その真ん中に、お師匠様が大切にしている箏が置かれていた。



「今日は、あの箏でお稽古しましょう」


「ですが、あれはお師匠様の大切な箏。私は練習用のものを使わせていただきます」


 志乃が滅相もないと首を振ると、お師匠様はそれを制するように志乃の顔を覗き込む。


「志乃さん、あれをお使いなさい。調弦は済ませてありますからね」


 お師匠様の妙に威厳のある顔つきに、志乃は圧されるように小さくうなずくと、支度を整えて座敷へと向かった。



 どきどきとしながら箏の前に来た志乃は、着物の裾をおさえながらそっと座る。


 見ると弦は平調子で合わせられているようだ。


 志乃は漆の入れ物から箏爪を取り出すと、親指・人差し指・中指に爪をはめた。



「では六段から」


 お師匠様の澄んだ声が響き、志乃は一旦深呼吸をすると弦の上に手を添える。


 そのまま、やや緊張した指先で、最初の弦を弾いた。


 ピンと初めの一音が響き渡った瞬間、志乃の全身に電気が走ったように箏の音色が駆け巡る。



 箏曲(そうきょく)“六段の調(しら)べ”は、幼い頃より何度も弾き込んでいる。


 それでも弾く度に新しい気づきがあり、何度奏でても終わりはないのだと感じさせられた。



 ついいつものように夢中になって箏に向き合い、弾き終わった志乃ははっと顔を上げる。


 今、誰かが志乃を見ているような気がしたのだ。


「え?」


 志乃は慌てて小さく辺りを確認したが、変わった様子は見られない。



 ――きっと、思い違いね。



 志乃は少しだけホッとすると、再び姿勢をただして箏に向かう。


 今日は障子が開け放たれているから、そう感じただけだろう。


 今までのお稽古と何ら変わりはないのだ。


 ただ一つ、風に運ばれるガタクリという音以外は……。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ