第三話 風がはこんだ音色(一)
「お母さんったら、どうしたのかしら?」
次の日、志乃は妹たちを小学校へやると、その足でお師匠様の元を訪ねた。
お師匠様のお屋敷は高台にあり、そこへ続く坂道を上った開けた場所からは、港と大きな海が一望できる。
志乃は潮風に着物の袖を揺らしながら、レンガ造りの塀が続く通りを進み、ゆっくりと緩やかな石段を上って行った。
しばらくすると、ボーっという汽笛が響き渡り、ふと振り返ると港に大きな軍艦が一隻停泊しているのが見える。
その近くでは白いセーラー服に身を包んだ水兵さんが、列をなして行進していた。
志乃はしばらくその様子を眺めた後、再び足を運びだす。
今日は母に言われて、持っている中で一番華やかな、銘仙の着物を着てきた。
なぜ母が頑なにそう言ったのかはわからなかったが、志乃も赤や黄の華やかな着物の柄に、久々に心が晴れやかになった気分になる。
時折、軍楽隊が奏でる軽快な行進曲が、風にのって耳元に届き、志乃はそのマーチに合わせるように階段を上りきった。
すると石段の最上段で、ふうと息を整えた志乃は、お屋敷の前を見て目を丸くする。
「お師匠様?」
お師匠様は誰かを待つように、立派な門の前で行ったり来たりしているのだ。
「今日私が訪ねて来ることは、ご存じだったのかしら?」
志乃は不思議に思いながら小さく首を傾げる。
それにしてもお師匠様が外に出ているなんて、今までにないことだ。
いつだって厳しい顔をして、箏の前に座っている方なのに。
すると志乃の姿を見つけたお師匠様は、「あぁ」と軽く手を上げながらにっこりとほほ笑んだ。
「志乃さん、良く来ましたね」
「お師匠様、ご無沙汰しております。お稽古をお休みしてしまい、申し訳ありません」
志乃はお師匠様に駆け寄ると、そっと頭を下げる。
「いいのですよ。それより、この度は大変でしたね。お母様の具合はいかがですか?」
「はい。体調は良かったり、悪かったりを繰り返しています。でも田所先生が、本当に良くしてくださって、今のところは皆なんとか過ごせています」
「そう、田所先生が……」
そこで志乃は母から持たされ手紙があったことを思い出した。
「あの、母からお師匠様宛の手紙をあずかりました。こちらです」
志乃は慌てて風呂敷包みから手紙を取り出すと、お師匠様に手渡す。
お師匠様は手紙を受け取ると、その場ですぐに目を通しだした。
「そう……かしこまりました……」
お師匠様はそっと目頭を押さえると、母の手紙に応えるように小さく声を出す。
そしてにっこりとほほ笑んだあと、不思議そうな顔をする志乃を中へ招き入れた。
志乃は門をくぐった途端、再び小さく首を傾げる。
いつもお稽古で通っていた時とは、何か雰囲気が違うのだ。
「今日はね、とてもお天気が良いでしょう? ですから障子をすべて取り払ったのです」
「え? 障子を?」
志乃が見ると、大きな庭に面した座敷は開け放たれ、奥まで見渡せるようになっている。
その真ん中に、お師匠様が大切にしている箏が置かれていた。
「今日は、あの箏でお稽古しましょう」
「ですが、あれはお師匠様の大切な箏。私は練習用のものを使わせていただきます」
志乃が滅相もないと首を振ると、お師匠様はそれを制するように志乃の顔を覗き込む。
「志乃さん、あれをお使いなさい。調弦は済ませてありますからね」
お師匠様の妙に威厳のある顔つきに、志乃は圧されるように小さくうなずくと、支度を整えて座敷へと向かった。
どきどきとしながら箏の前に来た志乃は、着物の裾をおさえながらそっと座る。
見ると弦は平調子で合わせられているようだ。
志乃は漆の入れ物から箏爪を取り出すと、親指・人差し指・中指に爪をはめた。
「では六段から」
お師匠様の澄んだ声が響き、志乃は一旦深呼吸をすると弦の上に手を添える。
そのまま、やや緊張した指先で、最初の弦を弾いた。
ピンと初めの一音が響き渡った瞬間、志乃の全身に電気が走ったように箏の音色が駆け巡る。
箏曲“六段の調べ”は、幼い頃より何度も弾き込んでいる。
それでも弾く度に新しい気づきがあり、何度奏でても終わりはないのだと感じさせられた。
ついいつものように夢中になって箏に向き合い、弾き終わった志乃ははっと顔を上げる。
今、誰かが志乃を見ているような気がしたのだ。
「え?」
志乃は慌てて小さく辺りを確認したが、変わった様子は見られない。
――きっと、思い違いね。
志乃は少しだけホッとすると、再び姿勢をただして箏に向かう。
今日は障子が開け放たれているから、そう感じただけだろう。
今までのお稽古と何ら変わりはないのだ。
ただ一つ、風に運ばれるガタクリという音以外は……。