第二十三話 初めての社交界(一)
「良いですか、志乃様。たとえ物珍しいものがあっても、決して駆け寄ったり、じろじろ覗いたりしてはなりませぬぞ」
五木が志乃のドレスの裾を整えながら、いかめしい顔つきで下から覗き込む。
「わ、わかっております……」
志乃はドレスの上から、中に着たコルセットを押さえると、なんとか息をしながら声を絞り出した。
あれからしばらく経った今日は、初めて花奏と外出をする社交界の日だ。
場所は海軍の施設が集まる街の中心地にあり、貿易商として名をはせている方の自邸だそうだ。
今回は軍の関係者から政財界の要人に加え華族、外国の貿易商も招待されており、花奏の仕事においても重要な会なのだと、五木から教えてもらった。
志乃ははじめ、社交界へは着物で行くものと思っていたが、用意されたのは西欧風のドレスだった。
ドレスなど一度も着たことがない志乃は、一目見ただけで、そのあまりに華やかで優美な装いにため息が漏れてしまう。
ドレスは濃紺で袖が長く、ピンタックの襟元には白地のレース素材が使われた清楚なもので、白い組紐の飾りボタンがモダンだった。
段になり大きくフレアに広がる裾は、互い違いに細かい花柄の刺繍を施したサテン生地が覗いていた。
「こんなに素敵なドレスを私に? 良いのでしょうか……」
驚いて目を丸くする志乃に、五木は「旦那様がご用意なされました」と、にっこりとほほ笑んだのだ。
「ほらほら志乃様。顎を引いてしゃんとなさい。淑女たるもの姿勢を正して、にこやかに旦那様の後ろに控えておいででなければなりませぬ」
志乃は、先ほどから耳にタコができそうなほど何度も聞いた、五木の言葉に渋い顔をする。
「どうかなさいましたかな? 顔が真っ青ですぞ」
「い、息が苦しいのです……」
志乃は恨めしそうに、上目遣いで五木を見た。
志乃の着替えを手伝った女性は、もう帰っている。
五木は小さくため息をつくと、志乃の後ろに回り、少しだけリボンの結びを緩めてくれた。
「志乃様。今回ご招待を受けるのは、旦那様も大変お世話になっておられる方なのです。とにかく失礼のないように!」
五木がもう一度怖い顔を覗き込ませ、志乃が「ひっ」と悲鳴を上げたとき、ギシギシと廊下を歩く音が聞こえる。
「もう、それぐらいでよいだろう、五木」
すると開いた障子から、タキシード姿の花奏が顔を覗かせた。
花奏の姿を見た途端、志乃はぽっと頬を赤らめる。
普段から花奏のスーツ姿は見慣れているはずなのに、今日の花奏は一段と紳士然として凛々しく美しかった。
「だ、旦那様……あの、いかがでしょうか?」
志乃は自分のドレス姿に恥ずかしさで下を向きながら、小さく声を出す。
花奏は志乃に目をやると、しばらく驚いたように見つめていたが、はっとするとすぐに目を逸らした。
――まさか、旦那様のお気に召さなかったのでは……?
何も言わない花奏に不安になり、そっと顔を上げた志乃は、花奏の横顔を見て目を丸くする。
花奏の頬は、ほんのり色づいているように見えるのだ。
「……なかなか、良いではないか」
花奏は小さくそう言うと、「先に出ておるぞ」と言い残して廊下を歩いて行ってしまった。
「五木さん……今旦那様は、お褒めくださったのですよね……?」
喜びで瞳を輝かせる志乃に、五木はフォッフォッと満面の笑みを見せる。
「はい。そうでございますよ。自信をもって行ってらっしゃいませ」
五木の声に大きく返事をすると、志乃はドレスと同じ生地で出来た帽子をキュッと頭にのせ、花奏の待つ表へと向かって駆けだした。




