第二十二話 長い髪のわけ(二)
その日の晩、片づけを済ませた志乃は、いつものように五木に先に休むと声をかけると、暗い廊下を進み自分の部屋へと向かった。
ギシギシと音の鳴る廊下を歩きながら、ふと先ほどまでの花奏の様子を思い出す。
田所が帰った後、離れから戻った花奏は、いつもと変わらぬ顔つきをしていた。
静かに食事をとり、穏やかな声で五木と会話をし、脇に湯飲みを置く志乃に、優しくほほ笑んでくれた。
でもその後は、まだ仕事が残っているからと言って、早めに自分の部屋にこもってしまった。
今までにも、そういう日は度々あったはずだ。
でも今の志乃には、その様子ですら、花奏が再び過去に閉じこもってしまうような気がして、不安でたまらなかった。
そして花奏の長い髪が揺れる度、志乃は酷く心をえぐられたような気持ちになって苦しくなるのだ。
志乃はふと、田所の話を思い出す。
“懺悔の証”
田所は、花奏の髪のことをそう言った。
自分は幸せになってはならぬと戒めるものに、花奏の髪はなってしまったのだと。
まるで呪いのように花奏を縛り付ける苦しみを、どうしたら溶かしてゆけるのか……。
志乃は花奏の部屋の前まで来ると、ぴたりと足を止める。
毎夜ここで障子越しに花奏に声をかけ、「おやすみなさいませ」と言ってから自分の部屋に入るのが最近の常なのだ。
でも今日だけは、この障子を開け放ってしまいたいという衝動にかられる。
そして花奏の胸に飛び込み、その熱を確かめたいのだと思ってしまう。
香織の箏を弾いた時のように、強引に心に押し入れば、花奏は志乃を受け入れ、苦しみから解き放たれていくのだろうかと……。
志乃は部屋の前で一旦息を整えると、小さく口を開く。
「旦那様……志乃です」
志乃は声を出しながら、障子の縁にそっと手をかけた。
部屋は静まり返っていたが、しばらくして、かすかな物音と共に花奏の気配が伝わってくる。
「あぁ、志乃か。いかがした?」
少し間をおいて、花奏の低い声が部屋の奥から聞こえた。
その声を聞いた途端、志乃は障子にかけていた手を離すと、胸の前でぎゅっと両手を握り締める。
やはり自分には、この障子を開け放つ勇気はない。
花奏に拒否されることほど、今の志乃を傷つけるものはないのだから……。
「旦那様。先に、休ませていただきます……」
必死に絞り出した志乃の声は、わずかにかすれている。
「あぁ、そうか……志乃も、ゆっくり休め」
すると少しだけ躊躇ったような声の後、花奏のいつもと同じ返事が聞こえた。
志乃は小さくうつむくと、サッと花奏の部屋に背を向ける。
背後から、カタンという物音が聞こえた気がしたが、志乃は向かいの自分の部屋の障子を開けると、そのまま後ろ手で障子を閉じた。
真っ暗い部屋へ入ると、志乃はぺたんと畳に座り込む。
なぜだろう。
また、花奏との距離が開いてしまったような気がした。
それは田所の話を聞いた志乃の心持ちかも知れないし、元々そうだっただけなのかも知れない。
「旦那様は、手を伸ばせば届く所においでなのに……」
志乃はぽつりとつぶやくと、暗い部屋に溶けるように深く息を吐く。
そんな志乃の部屋の外では、花奏の部屋の障子が開いていたことに、志乃は気がつかないまま……。