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第二十二話 長い髪のわけ(一)

 志乃が炊事場で、来客用の湯飲みとお茶菓子を盆にのせていると、離れから歩いてくる田所の姿が目に入る。


「あら、田所先生、もうお帰りですか?」


 慌てて外へ顔を覗かせた志乃の声に、田所は寂しそうに笑った。


「今日は少し寄っただけだからね。もう、おいとまするよ」


「そうですか……。ではお見送りを」


 志乃は手に持っていた盆を一旦台に戻すと、袖をくくっていた(たすき)を外しながら、田所の後について外の戸へと向かう。



 先ほど、田所が離れから戻る前、花奏と田所の言い争うような声が、風に乗って志乃の耳に届いていた。


 話の内容まではわからなかったが、明らかに志乃がいた時とは様子が違う二人の声に、志乃は内心不安を感じたのだ。


 ゆっくりと砂利道を進みながら、花奏が見送りに出ないのは、そのせいかも知れないと、そっと離れを振り返る。


 表へ続く小さな戸をくぐり、顔を上げると、見慣れた田所の自転車が壁にもたれるように立てかけてあった。



「あの、田所先生……旦那様と、何かあったのですか?」


 志乃は、自転車をこちらへ起こす田所の背に、思い切って声をかけた。


「まさか、聞こえていたのかい?」


 志乃の声に、田所は驚いたように振り返る。


 志乃は小さく首を横に振った。


「いえ、はっきりとは。ただお二人とも、少し怒っておいでのようでしたので、気になって……」


 小さくうつむく志乃に、田所は「すまないね」とつぶやくように謝った。



 夕日はすでに大きく傾き、辺りは薄暗くなっている。


 田所は誰も歩いていない通りに、ぼんやりと目を向けていたが、もう一度自転車を壁にもたれかけさせると、志乃に向き直った。



「僕はね、いつも一言多いらしいんだ。だけどこれは、志乃ちゃんに話しておかなければと思う」


「何のお話ですか……?」


 田所の口ぶりからして、良い話ではないような気がした志乃は、不安そうに眉を下げる。


 田所は一旦躊躇(ためら)うような様子を見せてから、それでもゆっくりと口を開いた。



「花奏の髪のことだよ……」


「旦那様の髪……ですか?」


「そう。花奏はね、香織ちゃんが亡くなってから、髪を切っていないんだよ」


「……え?」


 志乃は小さく聞き返した。


 髪を切っていないとは、どういうことだろう?


 確かに花奏の髪は長く美しい。


 初めて出会った時から、風に揺れるその髪に、つい目を奪われていたのは事実だ。


 すると首を傾げる志乃に、田所がゆっくりと続けた。



「僕が思うにね、切りたくても、切れないんだよ」


「どういうことですか……?」


「香織ちゃんの死を()の当たりにしたその日から、花奏の髪は香織ちゃんへの、懺悔の証(ざんげのあかし)のようになってしまったんだと思う」


「懺悔の……証……?」


 志乃はその言葉の意味がわからず、戸惑うように瞳を揺らす。


 田所は悲しげな顔を、志乃に向けた。



「花奏の髪はね、この先自分は幸せを望んではいけないと、自らを(いまし)めるものになってしまったんじゃないかと思うんだ」


「そんな……」


 志乃は息を止めると、かすかに冷たくなった自分の手をぎゅっと握った。



 ――そんなの、あんまりじゃない……。



 志乃は心の中で叫び声を上げる。


 やっと前に進めたと思ったのに、花奏はどこまで自分を苦しめたら、満足するというのか。



 離れで箏を弾き、二人で過ごす時間が長くなればなるほど、花奏との距離が近づき、志乃は花奏を心の苦しみから溶かしているのだと安心した。


 でもその一方で、まだ花奏を“本当の意味では救えてはいない”と、漠然と感じていたその理由……。


 志乃は、それが初めてわかった気がした。



 ――まだ、旦那様のお心は、癒されてなどいなかったんだ。



 志乃の頬を涙が伝う。


 それ程までに、花奏の苦しみは深かったのかと改めて思い知った。



「でも僕はね」


 田所が、うつむいた志乃の顔を覗き込む。


「僕は信じているよ。花奏は一歩踏み出せたんだ。だからいつか、花奏が志乃ちゃんと二人で、自らを苦しみから解放してくれることを……。花奏の本当の妻になれるのは、後にも先にも、志乃ちゃんしかいないのだからね」


 田所はそう言うと、寂しそうに引き上げた口元で笑ったのだ。


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