第二十一話 心の内(二)
「でもしかし、志乃ちゃんを選んだ僕の目に、狂いはなかったってことかぁ」
しばらくして田所が、わざとらしく鼻を上に向け、大きく伸びをするように両手を空に振った。
「田所、お前はいつも一言余計なのだ」
花奏があきれ顔でそう言うと、「そりゃそうだ」と田所は声をあげて笑った。
辺りには穏やかな秋の風が吹き抜け、花奏は静かに顔を空に向ける。
「志乃は本当に面白い娘だ。なぜだろうな、俺はあんなにも自分の死がやってくることを望んでいたのに、今はただ、志乃の箏の音を聴くために生きているような、そんな気さえしてくるのだ」
「それはね、花奏。それだけ志乃ちゃんの存在が、お前の中で大きくなっているということだよ」
田所はそう言うと、花奏に正面から向き直った。
「ねぇ花奏、どうして志乃ちゃんを、妻として愛さないんだい?」
田所の真っすぐな声に、花奏ははっと顔を向ける。
「志乃ちゃんは、とても魅力的だよ。花奏だってそう思っているんだろう? そして志乃ちゃんは、お前に愛されることを願っている……」
「だからだ」
花奏は田所の言葉を遮るように声を出す。
「だから、志乃には触れられぬのだ」
「え?」
田所は眉をひそめると、小さく首を傾げた。
「俺は志乃のおかげで、こうして香織のことを、少しずつ思い出に変えていくことを知った。過去を忘れることは、決して悪いことではないと知ったのだ。それ程、志乃には人を癒す力があるし、魅力がある」
花奏は一旦口をつぐむと、遠くを見つめるように空を仰ぐ。
「だからこそ、志乃は俺の側になど、いてはならぬと思う時があるのだ。志乃はこのまま、俺の妻になど、なってはならぬのだと……」
「だから触れないというのか?」
問い詰めるような田所に、花奏は揺れる瞳を向ける。
「そうだ……。でも、かと言って、志乃を突き放せぬのだ。あの笑顔を見る度、衝動的に抱きしめてしまいそうになる……」
「そうすればいいじゃないか!」
田所は大きく両手を上げると、バンと縁側の板に叩きつけた。
「田所?」
「その感情のままに、志乃ちゃんをきつく抱きしめて、自分のものにすればいいじゃないか!」
田所は強い瞳を花奏に向ける。
「花奏はまだ恐れているんだよ。素直に気持ちをぶつけてくる志乃ちゃんに、目の前に現れた幸せに戸惑っている。そして、自分が幸せになっていいはずがないと、必死に自分に言い聞かせているんだ」
田所は手を伸ばすと、花奏の肩をぐっと掴んだ。
「でも、お前は一歩踏み出したんじゃないのか。もう以前のような、死神のお前じゃないだろう?」
花奏の肩を揺する田所の手が、小刻みに震えている。
「花奏、お前はあまりにも多くの人を見送りすぎた。あまりにも多くの人の死を、見すぎたんだよ。もうこれ以上、自分を苦しめるのはやめてくれ……」
田所は声を震わせると、拳を握り締めながら下を向く。
花奏は大きく首を振ると、田所の手を静かに離した。
「田所、俺は自分を苦しめているのではない。志乃の幸せを願っておるのだ」
「違う!」
花奏の言葉を遮るように、田所の大きな声が響く。
「お前は何もわかっていない。志乃ちゃんの幸せは、お前の側にいることなんだよ……」
目の前の庭をサッと風が吹き抜け、辺りの木々を大きく揺らした。
その風に舞うように、サザンカの花びらが数枚、はらはらと散っていく。
どれほど時間が経ったのだろう。
田所は眉を下げると、花奏の顔を見つめた。
「自分を苦しめているのでないなら、教えてくれよ。じゃあなぜ……なぜ花奏は、未だにその髪を切れないんだ……」
苦しげな田所の言葉に、花奏ははっと息を止める。
「……髪……?」
花奏はつぶやくと、大きく風に揺れる自分の髪に触れる。
その様子を見て、田所は静かに立ちあがった。
「志乃ちゃんは、お前の本当の妻になることを望んでいるよ。志乃ちゃんはお前が思う以上に、大人なんだ。身も心もね」
「田所……?」
「よく考えてみるんだ、花奏。お前は志乃ちゃんが、他の男に抱かれるのを見て、平静を保っていられるかを……」
田所はそう言い残すと、花奏に背を向け、静かに離れを後にする。
ただ一人離れに佇む花奏の前には、冷たい風だけが流れていた。