表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/84

第二十一話 心の内(一)

「志乃ちゃんは、本当に素直だね」


 走り去る志乃の背中を眺めながら、田所が楽しそうに肩を揺らす。


「まぁ、そうだな」


 そう答える花奏の顔つきも、まんざらでもない。


 縁側に腰かけた田所は、目を細めると、そんな花奏の顔を覗き込んだ。



「花奏は、志乃ちゃんが愛しくてたまらない様子だね」


 田所がからかうように言い、花奏はじっとりと田所を睨みつける。


「志乃はとにかく危なっかしいのだ。それでヤキモキしているだけだ」


「そうかなぁ?」


 花奏はふんと顔を背ける。



 ふと目をやった床の間には、今朝志乃が活けたサザンカの花が、淡い紅色の花を大きく広げていた。


 その華やかさに、近頃特に美しさを増してきた、志乃の姿を重ね合わせる。


 志乃は元々可憐であったが、最近ではふとした時に見せる表情が、大人として成熟した様を感じさせるのだ。


「旦那様」


 そう言ってほほ笑む志乃を前にして、はっとさせられたことは一度や二度ではない。



 でも花奏はまだ、はっきりとした意思を持って志乃に触れてはいない。


 肩を強く抱いたのも、軍楽隊の演奏会の日一度きりだ。



 それを知ってか知らずか、つい先日も五木に小言を言われたばかりだったことを思い出す。


「もうはっきりと、奥様とお認めになられてはどうですか?」


 五木は腰に手を当てながら、大きくため息をついていた。



 花奏自身は、志乃の母親が回復した時点で、たとえ志乃が実家に帰ったとしても、もうこの先、志乃以外の者を家に迎えることはないだろうと思っていた。


 それ程までに、志乃に心動かされ、惹かれていたのだ。



 でも志乃が、花奏の元に(とど)まることになった今、その先の関係を躊躇(ためら)い、立ち止まってしまう自分がいる。


 まだ若く美しく生命力がみなぎる志乃を、一度は死を望んでさえいた死神の元になど、(とど)めておいて良いはずがないのだと、再びそんな考えが浮かんでくるのだ。



 花奏はふと、社交界の話に心躍らせ、嬉しそうに母屋に戻った志乃の横顔を思い出した。


 志乃を社交界に連れて行けば、その美しさに、一躍人々の注目を集めることは確かだろう。



 妻としてではなく、斎宮司家の身内だと紹介すれば、志乃を見初(みそ)める者も出てくるかもしれない。



 ――そのようなことがあれば、志乃の幸せのため、俺は喜んで志乃を送り出すのが良いのだろう……。



 でも……。


 花奏はじっと目を閉じると、自分の心に問う。



 ――俺は本当に、志乃を手放すことができるのだろうか……。



 ふとそんなことを考え、深くため息をついた花奏の顔を、田所が覗き込んだ。


「花奏? どうかしたか?」


「いや、何でもない」


 花奏が首を振ると、縁側に腰かけた田所は、座敷の箏を静かに振り返った。



「それにしても驚いたよ。まさか、志乃ちゃんがここで、香織ちゃんの箏を弾いているとはね」


 田所は感慨深げにつぶやく。


「まぁ、(なか)ば強引に、志乃が弾き出したようなものだがな……」


 花奏が渋い顔をして答えると、田所はあははと声を出して笑った。


「でも、まんざらでもないって感じだね。その顔を見れば、きっと香織ちゃんも空の向こうで笑っているだろうよ」


「……そうだな」


 花奏はそうつぶやくと、自分の長い髪にそっと触れる。


 その艶のある黒髪と、まだ元気な時分の香織の長い髪が重なり、花奏は静かに目を閉じた。



「志乃の箏を聴いて過ごすうち、いつからか瞼に浮かぶ香織の顔が、ほほ笑んでいることに気がついた。頭にこびりつくように残っていた、最期の時のあの苦しげな顔は、今は浮かんで来ない……」


 花奏の穏やかな声に、田所が小さく鼻をすすった。


 花奏はその音を聞きながら、田所にも今までどれだけの心配をかけてきたのだろうと、思いを馳せる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ