第二十一話 心の内(一)
「志乃ちゃんは、本当に素直だね」
走り去る志乃の背中を眺めながら、田所が楽しそうに肩を揺らす。
「まぁ、そうだな」
そう答える花奏の顔つきも、まんざらでもない。
縁側に腰かけた田所は、目を細めると、そんな花奏の顔を覗き込んだ。
「花奏は、志乃ちゃんが愛しくてたまらない様子だね」
田所がからかうように言い、花奏はじっとりと田所を睨みつける。
「志乃はとにかく危なっかしいのだ。それでヤキモキしているだけだ」
「そうかなぁ?」
花奏はふんと顔を背ける。
ふと目をやった床の間には、今朝志乃が活けたサザンカの花が、淡い紅色の花を大きく広げていた。
その華やかさに、近頃特に美しさを増してきた、志乃の姿を重ね合わせる。
志乃は元々可憐であったが、最近ではふとした時に見せる表情が、大人として成熟した様を感じさせるのだ。
「旦那様」
そう言ってほほ笑む志乃を前にして、はっとさせられたことは一度や二度ではない。
でも花奏はまだ、はっきりとした意思を持って志乃に触れてはいない。
肩を強く抱いたのも、軍楽隊の演奏会の日一度きりだ。
それを知ってか知らずか、つい先日も五木に小言を言われたばかりだったことを思い出す。
「もうはっきりと、奥様とお認めになられてはどうですか?」
五木は腰に手を当てながら、大きくため息をついていた。
花奏自身は、志乃の母親が回復した時点で、たとえ志乃が実家に帰ったとしても、もうこの先、志乃以外の者を家に迎えることはないだろうと思っていた。
それ程までに、志乃に心動かされ、惹かれていたのだ。
でも志乃が、花奏の元に留まることになった今、その先の関係を躊躇い、立ち止まってしまう自分がいる。
まだ若く美しく生命力がみなぎる志乃を、一度は死を望んでさえいた死神の元になど、留めておいて良いはずがないのだと、再びそんな考えが浮かんでくるのだ。
花奏はふと、社交界の話に心躍らせ、嬉しそうに母屋に戻った志乃の横顔を思い出した。
志乃を社交界に連れて行けば、その美しさに、一躍人々の注目を集めることは確かだろう。
妻としてではなく、斎宮司家の身内だと紹介すれば、志乃を見初める者も出てくるかもしれない。
――そのようなことがあれば、志乃の幸せのため、俺は喜んで志乃を送り出すのが良いのだろう……。
でも……。
花奏はじっと目を閉じると、自分の心に問う。
――俺は本当に、志乃を手放すことができるのだろうか……。
ふとそんなことを考え、深くため息をついた花奏の顔を、田所が覗き込んだ。
「花奏? どうかしたか?」
「いや、何でもない」
花奏が首を振ると、縁側に腰かけた田所は、座敷の箏を静かに振り返った。
「それにしても驚いたよ。まさか、志乃ちゃんがここで、香織ちゃんの箏を弾いているとはね」
田所は感慨深げにつぶやく。
「まぁ、半ば強引に、志乃が弾き出したようなものだがな……」
花奏が渋い顔をして答えると、田所はあははと声を出して笑った。
「でも、まんざらでもないって感じだね。その顔を見れば、きっと香織ちゃんも空の向こうで笑っているだろうよ」
「……そうだな」
花奏はそうつぶやくと、自分の長い髪にそっと触れる。
その艶のある黒髪と、まだ元気な時分の香織の長い髪が重なり、花奏は静かに目を閉じた。
「志乃の箏を聴いて過ごすうち、いつからか瞼に浮かぶ香織の顔が、ほほ笑んでいることに気がついた。頭にこびりつくように残っていた、最期の時のあの苦しげな顔は、今は浮かんで来ない……」
花奏の穏やかな声に、田所が小さく鼻をすすった。
花奏はその音を聞きながら、田所にも今までどれだけの心配をかけてきたのだろうと、思いを馳せる。