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第十九話 箏の音色

 五木がお使いに行くと言って屋敷を出た後、志乃は表から庭に回った。


 池の周囲を慎重に回り、足を進めると目の前にあの離れの入り口が現れる。


 志乃は戸の前に立つと、手に力を込めて、重い戸を横にぐっと開いた。


 ガラガラという低い音と共に戸が開き、わずかに舞った(ちり)が、さし込んだ光に反射して、キラキラと輝いては消えていく。


 志乃はそっと入り口の敷居をまたぐと、静まり返った土間に立った。



 以前来た時には気がつかなかったが、この離れもとても良く掃除されているようで、使われていない部屋であるのに古びた臭いは一切しない。


 志乃は丁寧に下駄を脱ぐと、板の間に上がり、前と同じように障子をそっと開けた。


 その途端、座敷の真ん中に置いてある箏が目に止まる。


 箏は、穏やかな日が当たる温かな色合いの中、以前と同じように静かにそこにあった。



 志乃は座敷に入ると、丁寧にすべての障子をあけ放つ。


 目の前に広がる庭の奥に母屋が見え、志乃は一旦深呼吸するように大きく息を吸った。



 庭から目線を離し、振り返った志乃が床の間(とこのま)に目をやると、昨日仏壇に供えたものと同じ撫子(なでしこ)の花が、細長い鋳銅製(ちゅうどうせい)の花瓶に()けられているのが見えた。


「旦那様が、摘んで来られたのかしら?」


 志乃は桃色の撫子の、可憐な花びらにほほ笑むと、その脇に置いてある机から、香織のものと思われる譜面と箏爪を取り上げる。


 そのまま、いくらか緊張した面持ちで箏の前に立つと、姿勢を正して静かに座った。



 パラパラと譜面をめくっていた志乃は、“秋の言の葉(ことのは)”という曲で、ぴたりと手を止める。


 そこには何度も紙をめくったのであろう跡が残されていた。


 志乃はその箇所を丁寧に開くと、箏台(きんだい)にのせる。


 全ての弦に箏柱(ことじ)を立て、調弦を済ませると、香織の箏爪が入った小箱を開けた。


「香織様、私に箏をお貸しください」


 志乃はそっとつぶやくと、箏爪をつけ箏を弾き出した。



 秋の虫の音や、遠くに聞こえる(きぬた)の音を表現したこの曲を、志乃は丁寧に唄いながら紡いでいく。


 途中、譜面の“ユ”の文字を見ながら、香織はこの“ゆりいろ”を、どのように表現して奏でていたのだろうと思いを馳せた。



 演奏を終え、ふうと静かに息をした志乃は、ふと人影を感じてはっと顔を上げる。


 すると志乃の右横にある、障子を開け放った離れの縁側に、花奏が腰かけていたのだ。


 着流し姿の花奏は、志乃に背を向けたまま、腕を組んでいるようだった。



「だ、旦那様! お帰りだったのですね。申し訳ございません、私……」


 志乃が慌てて立ち上がろうとすると、それを止めるように花奏はそっと片手を上げた。


「志乃、そのままでよい。もうしばらく、お前の箏を聴かせてくれないだろうか?」


 ちらりとこちらに向けた花奏の横顔は、とても穏やかで優しい。


 てっきり、勝手に離れに入って箏を弾いたことを、(とが)められると思っていた志乃は、驚いたように浮かせていた腰をぺたんと座布団に落とした。



「お叱りにならないのですか……?」


「なぜ?」


「香織様の形見の箏を、私が勝手に弾いたからです……」


 うつむきながら答える志乃に、花奏は振り返るとくすりと肩を揺らす。



「そうだな。箏の()が聞こえた時、驚いたのは確かだが……」


 花奏は一旦、言葉を探すように目線を漂わせたのち、小さくうなずくと志乃を見つめる。


「志乃の箏の音を聴いているうちに、いつの間にか音色に浸ってしまっていたのだ」


「……どういうことでしょう?」


 志乃は花奏の言葉の意味がわからず、小さく首を傾げる。


「端的に申せば、お前の箏は人の心を癒すということだ」


 花奏のやや明るい声に、志乃は心の底から喜びが込み上げてきた。



 つい昨日まで、志乃と花奏の間には、大きな隔たりがあったはずだ。


 でも、花奏は自分の抱える過去をさらけ出し、志乃はそれを受け止める勇気を持った。


 そして二人は今、前に進む行動をおこした。


 だからこそ、志乃はこうして花奏と穏やかに話ができているのではないだろうか。



 ――少しずつだけど、旦那様との距離が近づいている気がする。



「志乃?」


 思わず瞳を潤ませる志乃に、花奏が小さく首を傾げた。


「なんでもございません……」


 志乃は笑顔で涙を振り払うと、再び箏に向かったのだ。


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