第十八話 離れの箏(二)
「その後のことは、志乃様が昨晩、花奏様から伺った通りにございます」
五木は肩を震わせると、静かに声を殺して泣き出した。
志乃はやるせない気持ちで、胸が張り裂けそうになる。
しばらくして、静かにそのすすり泣く声を聞いていた志乃に、五木が顔を上げた。
「香織様が亡くなって以降、花奏様はもの思いにふけることが多くなりました。私はいつも、いつか花奏様が目の前から消えてしまうのではないかと、不安を抱えていたものです……」
志乃は初めて花奏を見た時の、儚くて今にも消えてしまいそうな姿を思い出す。
五木はきっとそんな花奏を一番近くで支えながら、心配をし、不安を抱えて過ごしていたのかも知れない。
――だから五木さんは、私が一人でいなくなった時も、あんなに怒ったのだわ。
軍楽隊の演奏会の日、五木は姿を消した志乃に鬼のような形相で、ひどく怒っていたのを思い出す。
「五木さんは演奏会の日、私が一人で席を外した時に、とてもお怒りになりましたが、旦那様のことがあったからですか?」
志乃の声に目を丸くすると、五木は急にフォッフォッといつもの笑い声をあげる。
「まぁ、そうかも知れませぬな。ただ……志乃様は、何をしでかすか、こちらがハラハラするときがあるのでございますよ」
五木はそう言うと、そっと志乃に顔を覗き込ませる。
「きっと旦那様も、そう思われていることでしょう」
「え!? そうなのですか!?」
思いもよらぬ返答が帰って来て、素っ頓狂な声を上げる志乃に、五木はフォッフォッと楽しそうに大きな声で笑った。
「そ、そういえば……初めて旦那様にお会いした時に『お前はとにかく危なっかしい』と、旦那様がおっしゃいました」
渋い顔をする志乃に、五木は再びフォッフォッと笑う。
その声につられて、志乃もついくすくすと笑いだしてしまった。
「そんなことがあったからこそ、昨晩の志乃様のお言葉は、五木の心に深く残ったのでございます。本当に志乃様は、大切な斎宮司家の奥方様にございますよ」
五木の言葉に、志乃は「奥方様だなんて!」と小さく叫んでしまう。
「どうされました?」
五木は不思議そうな顔をしている。
「だって……まだ私は、旦那様に“妻”として、認めていただけていないと思うのです……」
「そうでしょうか?」
「きっと、そうです。でも……」
志乃は静かに目を閉じると、息を吸って顔を上げる。
「いつか旦那様に、笑顔が戻った時……。その時は、旦那様の本当の“妻”になりたいと願っています」
志乃の硬い決意に、五木はにっこりとほほ笑む。
「志乃様の今のお言葉を、そのまま旦那様にお聞かせしたいものですな」
「えっ……」
志乃は軽く叫び声を上げると、真っ赤になった頬を両手で覆った。
すると五木が志乃をそっと手招きする。
「でも旦那様も、今の志乃様と同じように、ひどく照れて顔を背けてしまわれるかも知れないですがな」
耳打ちするようにコソコソと話す五木に、志乃は再び顔を真っ赤にした。
「もう、五木さんったら」
頬を膨らませてそう言いながらも、志乃はつい、ふふっと吹き出した。
志乃の笑い声は、薄く線を引いたような秋の雲と共に、空にすっと伸びていく。
すると一瞬、強い風が開け放った障子からサッと吹きこみ、志乃を包み込んで去っていった。
「きゃ……」
小さく目を閉じた志乃が、しばらくしてそっと瞼を開くと、目の前にあの離れが飛び込んでくる。
その瞬間、志乃の中で確かな気持ちが芽生えた。
やはり香織の箏は、あのままでいいはずがない。
過去の思い出や後悔と共に、離れで佇む花奏を外へ連れ出さなければならないのと同じように、香織の箏もそのままではいけないのだ、と。
――旦那様に、一歩でも踏み出してもらうために……。やはりあの箏は、音を奏でるべきなのだわ。
志乃は硬く自分にうなずくと、五木の顔をまっすぐに見つめた。
「五木さん。私は、香織様の箏を弾こうと思います」
五木は志乃の声に、驚いたように一瞬目を見開いていたが、静かににっこりとほほ笑んだ。