第十八話 離れの箏(一)
花奏が出かけるのを見送ってから、志乃は屋敷内を熱心に掃除し始めた。
今日は朝から何度も赤面して、心が大騒ぎだったが、やはり身体を動かしていると、色々と頭も整理されてくる気がする。
着物の端切れを縫い合わせた雑巾で、廊下や柱などを丁寧に磨いていた志乃は、ふと庭の離れに目を止めた。
離れは戸が閉じられ、障子もすべて閉まったままだ。
以前志乃が見かけた、離れに置いてある箏は、いわば香織の形見のようなもの。
花奏はきっと時折、あの箏を見るために、離れに行っていたのであろう。
「でも……あの部屋に置いておくだけなど。それは本当に、旦那様にとって良いことなのかしら……」
あの部屋に箏を閉じ込めることで、花奏の心も同じように、過去に閉じ込めてしまう気がしてならないのだ。
すると志乃が小さく息をついた時、後ろから五木の声が聞こえた。
ふと振り返った志乃は、五木の姿を見て目を丸くする。
五木は志乃の前に正座すると、深々と頭を下げたのだ。
「五木さん!? どうされたのですか!?」
志乃は慌てて五木の前に座ると、頭を下げる五木の背に手を当てる。
五木は涙を堪えるように、小刻みに震えていた。
「志乃様……。五木は、昨晩志乃様がおっしゃられた言葉を、決して忘れませぬよ」
しばらくして瞳を潤ませた五木が、ゆっくりと口を開く。
「言葉……ですか?」
「はい。旦那様を“守る”と言って下さったことです」
五木の声に、志乃は途端に頬を真っ赤にすると下を向いた。
「き、聞こえていたのですね。あれは、咄嗟に口から出てしまったもので……。でも……」
「でも?」
「昨夜、旦那様にお伝えした気持ちに変わりはありません。私は旦那様を、過去の悲しみからお救いしたいのです。そして、本当の笑顔を見たい……。そう思います」
志乃の言葉に五木は深くうなずく。
五木は目元を手ぬぐいで拭うと、静かに顔を上げた。
「少し、昔話をいたしましょうか」
五木は庭の奥の離れを懐かしむように見ている。
「昔話ですか?」
小さく首を傾げる志乃に、五木は静かにうなずいた。
「坊ちゃん……花奏様と香織様のお話です」
五木が出した名前に、志乃ははっと息をのむ。
五木は初秋の空を見上げると、ゆっくりと口を開いた。
「花奏様と香織様は、五つ違いのご兄妹でございました。花奏様は、妹の香織様が生まれた時から、それはもう可愛がっておいでで。私が何か世話を焼こうとすると『五木は黙って見ておれ』と、度々叱られました程です」
五木が懐かしそうに目を細め、志乃はつられるようにくすりと肩を揺らす。
「香織様も兄である花奏様を、とても慕っておいでで、お二人は本当に仲の良いご兄妹でございました」
五木は口を閉じると、一旦手ぬぐいで目じりを押さえた。
「お二人のお母上、奥様はお身体が弱く、香織様を生んですぐに亡くなられました。それもあって花奏様は、子供心に母親代わりも、つとめようとしていたのでございましょう。香織様に愛情を注ぎ、忙しいお父上に変わって家を支えておいででした」
「そうだったのですね……」
志乃の瞼に、見たことのない、幼き日の花奏の姿が浮かぶ。
花奏のことだ、正義感が強く精悍な子どもだったのだろう。
「それから花奏様も香織様もご立派に成長なさいましたが、その頃、突然お父上である旦那様が亡くなられたのです」
五木の話に、志乃は小さく息をのむ。
「お父上亡き後は、まだ学生だった花奏様がこちらへ戻り、家業を継がれましたが、当初はなかなか思い通りに事業が進まず、悩まれることも多ございました」
五木は苦しそうに眉を下げると、静かに目を閉じた。
「そんな花奏様の様子を側で見ていた香織様も、さぞかしもどかしかったのでしょう。だからこそ、花奏様の助けになればと思い、気乗りしない縁談も受けたのだと思います……」
志乃は花奏から聞いた話と重ね合わせ、香織の決心に胸が苦しくなる。
兄のために嫁いだ先で、まさかあんな未来が待っていたなんて……。




