第十六話 死神の過去(二)
志乃は大きく手を伸ばすと、そのわずかに震える花奏の身体を、包み込むように抱きしめた。
花奏がはっとして顔を上げる。
志乃はそのまま手にぐっと力を込めた。
「たとえ偽善であったとしても、旦那様は、ここで亡くなった者たちにとっては、唯一の救いだったのです。最後の時を穏やかに過ごせる、光だったのです。私はそれを信じます」
「志乃?」
花奏の声が耳元で聞こえる。
志乃はさらに力強く花奏を抱きしめた。
「次は私が旦那様をお救いします。香織様が、最後の時まで守りたかった旦那様を、私がお守りします」
「志乃、お前何を……?」
花奏は志乃の肩を両手で支え、身体を離すと、そっと目の前に座らせる。
志乃は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、驚いたような目をする花奏を見つめた。
「私は決して、この家を出ては行きませぬ。私は旦那様の妻なのです」
志乃はそう言うと、畳に置かれていた封筒を手に取る。
「これはお返しします。いつの日か、旦那様に本当の笑顔が戻ったなら、その時は喜んでそれを受け取りましょうぞ」
にっこりとほほ笑む志乃に、花奏は大きく首を振る。
「志乃。何を言っておる。お前はまだ若い、これからではないか。お前にはもっと幸せになれる相手がきっといるはず」
「そんなことはありません!」
志乃はそう言うと、ばっと立ち上がる。
「俺は死神なのだぞ」
花奏もゆっくりと立ち上がった。
「私は死神の旦那様のお側が良いのです。一切出ていく気はございません。そのお金は、棚の隅にでも入れておいてくださいませ」
志乃はそう言うと、ぷいっと顔を後ろに背けてしまう。
花奏はどうしたら良いものやと、頭を振った。
静まり返った時間が流れた後、しばらくして花奏が重い口を開いた。
「わかった。志乃の好きにしろ……」
その声を聞いた途端、志乃はぱっと振り返る。
そして花奏にぐいっと顔を覗き込ませた。
「はい。好きにさせていただきます。おやすみなさいませ、旦那様」
志乃はくるりと背を向けると、勢いよく障子を開き、仏間を飛び出ていく。
花奏はあまりの志乃の威勢のよさに、呆気にとられたようにため息をついた。
「志乃は、本当に面白い娘だ……」
するとくすりと肩を揺らした花奏の耳に、フォッフォッという笑い声が障子の奥から聞こえてくる。
「五木、盗み聞きとは趣味が悪いぞ」
花奏の声に障子がゆっくりと開き、畳に座している五木が姿を現した。
「あれだけ大きな声でお話になっていては、耳を塞いでいても聞こえてしまうというもの。ですが……」
「なんだ?」
五木は涙を堪えるように、しわがれた笑顔を花奏に見せる。
「志乃様に、救われましたな……」
口元を震わせる五木に、花奏は目を見開くと、ロウソクに照らされる位牌を振り返った。
その光はまるで喜ぶかのように、ゆらゆらと瞬いている。
「そうかも知れんな……」
花奏は自分自身にそうつぶやくと、目頭をそっと手で押さえた。
◆
志乃はどすどすと大きな足音を立てて廊下を進むと、障子を大袈裟に開けて自分の部屋に入る。
そのまま真っ暗い部屋を進み、部屋の真ん中に来たところで、畳の上へ急にへたり込んだ。
そして顔を両手で覆うと、「わぁっ」と声を上げて泣き出した。
志乃は、花奏の抱える過去を知った。
でもその過去は、あまりにも苦しく大きいものだった。
「旦那様は、死神などではなかった……」
皆から死神と恐れられている人は、自らの過去を責めて悔やんでいる、心優しき一人の男性だった。
ただ苦しんでもがいている、一人の人間だったのだ。
志乃はのそのそと立ち上がると、文机のランプに灯をともす。
すると、ぼうっと揺らめく光の中に、死神に宛てた手紙が浮かび上がった。
「それでも私は、旦那様をお支えしたい」
志乃はそうつぶやくと、手紙の上に置かれていた秋桜の押し花を手に取る。
淡い薄桃色の花弁は、光に照らし出され、まるで秋の夕暮れのひとコマのようだ。
――この温かな光のように、旦那様の心も溶かしてゆくことができれば……。
志乃は願いを込めるように、秋桜を手紙の中に戻すと、そっとランプの灯を消したのだ。