第二話 病の発覚(一)
「志乃ちゃんお帰り。今日もお稽古かい? 精が出るねぇ」
家へと向かう路地を曲がった所で、近くに住むおばあさんに声をかけられた。
おばあさんの背中では、いつものように男の子がすやすやと気持ちよさそうに寝息をたてている。
志乃は、おばあさんの仰ぐうちわを見ながら、にっこりとほほ笑み返した。
「はい。今日もたっぷりと絞られてきました」
ちょっとおどけた志乃に、おばあさんは大きな口を開けて笑う。
「花嫁修業も大変なこって」
おばあさんの声に、志乃はくすくすとつられるように声を漏らす。
「でも志乃ちゃんは、本当にべっぴんさんだから、すぐにお嫁にいっちまうだろうよ」
「貰い手があればの話ですけど」
志乃が肩をすくめると、おばあさんは再び大きく笑った。
おばあさんと別れた志乃は、家までの小道を急ぐ。
いつもより遅くなってしまったから、二人の妹は待ちきれずに外に出てきているかも知れない。
小走りで家の前まで来た志乃は、首を傾げるとぴたりと足を止めた。
家の前には見覚えのある、使い込まれた自転車が止められており、玄関の引き戸が少しだけ開いているのだ。
すりガラスの入った玄関からは、部屋の明かりがついているのがわかる。
志乃は慌てて中へ駆け入ると、下駄を脱ぎ捨て、土間から奥の部屋へと向かった。
バタバタと足音を鳴らし廊下を進むと、途端に下の妹の藤が障子を開けて飛び出してくる。
「お姉たんっ」
藤は志乃の腰元に縋りつくように両手を回すと、「わぁっ」と声をあげて泣き出した。
「藤、どうしたの?」
志乃は戸惑ったまま藤を抱え上げ、そっと茶の間を覗いた。
そこには妹たちを見てくれていた隣のおばちゃんと一緒に、上の妹の華が涙ぐんで座っている。
「あぁ、志乃ちゃん。良かった……。お母さんがね、ひどい咳で。今、田所先生が来られてるんだよ」
おばちゃんはそう言うと、襖の奥にそっと目をやった。
「お母さんが……!?」
志乃は息をのむと、藤を抱いたまま畳の上にペタンと座り込む。
「ひどく咳込みながら帰って来て、胸が痛いって言いながら、そのまま倒れちゃったの。お姉ちゃん、どうしよう……」
華は涙声でそう言うと、志乃の膝に「わぁ」と泣きながら顔をうずめる。
志乃は華の肩を抱きながら、今朝の母の様子を思い出していた。
確かに最近の母は、時折咳をしていたし、何やらやつれた様子だった。
志乃も心配して何度となく体調を気づかったが、母は「疲れが出たのよ」とそっと笑うだけだったのだ。
そして今朝も「心配ないから」と言い、仕事に出て行った。
――やっぱり、体調が悪かったんだ。
再び藤が「わぁっ」と声を上げた時、隣の部屋との境の襖がそっと開かれ、田所先生が姿を現した。
田所先生は、つい最近お父上から診療所を継いだばかりの若いお医者様だ。
先代も素晴らしいお医者様だったが、田所先生もとても信頼のおける方で、志乃たち一家も何かあれば診ていただいている先生だった。
白衣姿の田所先生は、近くに置かれた、たらいで手をすすぐと、厳しい顔つきで志乃の方へ身体を向ける。
「志乃ちゃん、お母さんなんだけどね。今流行りの肺の病にかかっているんだ」
田所先生の声に、一気に全身の血の気が引く。
「……肺の……病?」
志乃は絞り出すようにそうつぶやくと、思わず天井を仰いだ。
肺の病と言えば「国民病」と言われるほどの大流行で知られる感染症で、画期的な治療法はなく、志乃の周りでも病に侵され命を落とした人が何人もいる。
「知っていると思うけど、この病には特効薬がない。ただ療養するしか手立てはないんだよ。誰か頼れる身内の人はいるかい?」
田所先生の妙に落ち着いた声が、志乃の心をえぐった。
志乃は静かに目を閉じると、ゆっくりと首を振る。
志乃たち一家に身よりはない。
父方の親戚も、母方の親戚も、とうに縁は切れている。
父親もおらず頼れる親戚もいない今、幼い妹を抱えて、どう病気の母を療養させたら良いというのか。
志乃は自分が一気に絶望の淵に立たされた気分になる。
そもそも病気療養と言っても、それができるのは一部のお金持ちだけだ。
一般の庶民はなすすべもなく、最後は血を吐き、海に溺れるかのような息苦しさの中死んでいくのだ。
志乃はどうしようもない絶望の中、すすり泣く華と藤をきつく抱きしめた。