第十二話 母の回復(二)
そんな志乃の様子に、田所はあははと声を上げると「ごめんごめん」と大きく手を振る。
「少し意地悪だったね。でも、安心したよ」
「安心?」
「うん。志乃ちゃんが、彼を嫌っていないってわかって」
「どういうことですか? 田所先生は、旦那様のことをご存じなのですか?」
田所は志乃が嫁いだことは知っているが、嫁ぎ先までは知らないと思っていた。
――でも、違うの?
志乃は訳がわからず、小さく首を傾げる。
「彼はね、斎宮司花奏は、僕の幼馴染なんだ」
「え……? 幼馴染……?」
思いもよらない話に、志乃は驚いて目を丸くした。
今まで、志乃の縁談話がどこから来たのか皆目見当もつかないでいたが、もしかしたら田所が関わっていたのだろうか?
驚く志乃にほほ笑むと、田所はそのまま話を続ける。
「今まで彼には、何人もの妻がいたことは知っているかい? その皆が亡くなったことも」
「はい……それとなくは。たくさん並ぶ、仏壇の位牌を見ましたから」
うつむく志乃に、田所は静かにうなずいた。
「そうなったのには、花奏なりの理由がある。でもね、僕はもう十分だと思ってるんだ。これじゃあ、いつまで経っても花奏の心は救われない」
志乃は田所の話の意図がわからず、小さく眉をひそめた。
「僕はね、志乃ちゃんなら、花奏を救えるんじゃないかって思ったんだ」
「救う? 私が……ですか?」
田所の言葉に、志乃はますます訳がわからなくなる。
助けてもらったのは志乃たちの方なのに、救うとはどういう意味だろう?
田所は不思議そうな顔をする志乃に、寂しげに笑いかけた。
「志乃ちゃんなら、ただ一人、過去から動けなくなっている花奏を、救い出せるんじゃないかと思ったんだよ。花奏はね……」
田所は口を閉ざすと、海の彼方へ目線を向ける。
そしてしばし躊躇った後に、そっと口を開いた。
「花奏はね、身内を病で亡くしてるんだ。志乃ちゃんのお母さんと同じ肺の病だよ」
そう言った田所の横顔には、やるせないもどかしさが込められているような気がして、志乃はそれ以上何も聞けなかった。
田所と別れた志乃は、一人帰り道をとぼとぼと歩く。
頭の中ではついさっき聞いた、田所の言葉が何度も繰り返されていた。
別れ際に田所は、花奏が身内の死をひどく後悔しているのだ、と言った。
その死以来、花奏は人が変わったように、笑わなくなったとも……。
「どういうことなの……?」
志乃は立ち止まると、夕焼けで真っ赤に染まる空を見上げる。
花奏が抱える過去には、志乃がはかり知れないほど、深く重いものが広がっている気がした。
「私が、旦那様を、過去から救い出す……?」
そんな大それたことが、志乃に出来るのだろうか?
志乃はもうすぐあの屋敷を、追い出されるかも知れない身なのに……。
ため息をついた志乃は、そういえば、五木も花奏の過去のことを話していたことを思い出す。
花奏は、過去を忘れることを恐れているのだろうと……。
初めて会った時から心に引っかかっていた、花奏の悲しみと苦しみを映した瞳の色。
あの色は、身内を救えなかった自分に対する、やり場のない憤りや、後悔の現れだったのかも知れない。
深く息をつき歩き出した志乃は、家へと続く通りを曲がった所で、はたと足を止める。
「もしかして……。あの箏は、その亡くなった方のものでは……?」
あれだけ上等な箏だ。
さぞかし熱心に箏を弾いていた人物なのだろう。
でもそう考えれば、志乃だったら花奏を救えるのではないかと、田所が言ったことにも納得ができる。
志乃が箏に長けていることは、知り合いであれば誰もが承知していることだったからだ。
志乃ははっと顔を上げると、思い立ったように駆けだした。
それだったら、やはり自分はこのまま実家に戻るべきではない。
――たとえ旦那様に嫌われようとも、何もせずに去るべきではないんだわ。
それほどの恩を、志乃は花奏から受けたのだし、何よりも自分が花奏の支えになりたいと心から願うのだ。
志乃は息を切らして家に帰ると、母に今から屋敷に戻りたいと伝えた。
もう夕暮れだからと、母も始めは戸惑った様子だったが、志乃の真剣な表情に、静かにうなずく。
「母のことはもう心配ありません。志乃はすでに嫁いだ身。嫁ぎ先を一番に考えなさい」
母の言葉に大きく返事をすると、志乃は花奏のいる屋敷に向かって家を飛び出したのだ。