第十二話 母の回復(一)
「志乃ちゃん、お母さんはもう大丈夫、安心して良いよ。よく頑張ったね」
田所先生の声に、志乃は涙ぐむと、隣に寄り添って座っていた華と藤をぎゅっと抱きしめる。
華と藤は「わぁっ」と喜びの声を上げると、志乃に抱きついて泣き出した。
今日は田所先生から話があると言われ、実家に帰って来ていたが、まさかこのような嬉しい報告だとは思わなかった。
志乃は母の側に寄ると、涙ぐむ母の手をぎゅっと握りしめる。
「志乃、あなたには本当に苦労をかけましたね。ありがとう」
母はそう言うと、ゆっくりと身体を起こし、赤みがさして血色の良くなった顔をほほ笑ませた。
「おかぁさぁん」
華と藤が母に抱きつき、三人は声をあげて泣きながら喜びを分かち合う。
志乃もその様子を見ながら、あふれる涙を袖で拭った。
母の病を知ってから、一時は絶望におそわれたこともあったが、今日この日を迎えられたことに、志乃も心からホッとしていた。
「本当に、田所先生にはお世話になりました」
志乃はお茶の入った湯飲みを差し出すと、田所に深々と頭を下げる。
隣の部屋からは、華と藤がきゃっきゃと声を上げながら母に甘える様子が見えていた。
「この病気は完治というのがなくてね。疲れが出たり、免疫が下がればまた暴れ出すこともある。お母さんにはくれぐれも無理をさせないようにね」
田所の穏やかな声に、志乃は「はい」と深くうなずいた。
志乃はしばらくの間、楽しそうにほほ笑み合う母や妹たちの様子を見ていたが、ふと脳裏に花奏の言葉が浮かんでくる。
『母親が回復したあかつきには、遠慮なくこの家を去れ』
その言葉を思い出した途端、志乃は胸がぎゅっと締め付けられたような気分になって、思わず下を向いた。
志乃の嫁入りは、母が療養している間の生活を支えてもらうためのもの。
母が回復した今、援助をしてもらう理由も当然なくなってしまう。
――つまり、私が旦那様の妻である必要も、なくなるんだ……。
母の回復を喜ぶ一方で、志乃の心が反比例するように沈んでいくのは、きっとそのせいだろう。
――私は、なんて卑しい娘なの……。
入り混じる感情は、出口を失ったように志乃の心の中でぐるぐると回り続けている。
するとうつむいたまま深く息をつく志乃に、田所が顔を覗き込ませた。
「志乃ちゃん、少しいいかな?」
外を指さす田所に、志乃は小さく首を傾げる。
そして促されるまま「先生を見送ってくる」と母に伝え、家を出た。
田所は自転車の荷台に大きな診療鞄を括りつけると、ギコギコと音を鳴らしながら自転車を引いていく。
志乃はうつむきながら、その後をついていった。
しばらくして港が見える広場につき、田所は自転車を、腰ほどの高さの石の塀に寄りかからせるように止める。
志乃もその隣に立つと、塀に手をかけながら港を眺めた。
頬を撫でる潮風は、もう秋の装いに変わっている。
風を感じるように目を閉じた志乃の瞼に、再び花奏の顔が映った。
あれから花奏は屋敷に帰ってくることもあれば、長く留守にすることもあった。
食事を共にし、身支度を手伝うこともあるが、花奏は必要以上に志乃に言葉をかけることはないし、志乃からも何も言えない日々が続いている。
そして、離れに置いてある箏のことも、何も聞けずにいた。
「嫁ぎ先の暮らしはどうだい?」
すると田所の声が耳元で聞こえ、志乃ははっと目を開けた。
「その……。暮らしはとても良くしていただいています……。でも……」
「でも?」
「私、旦那様に好かれていないのです。きっともうすぐ、実家に帰されてしまいます……」
志乃の言葉に田所は小さく目を開く。
そして「ほお」と声を出した。
「そうか。つまり志乃ちゃんは、実家に帰りたくないわけだ」
「え……?」
「今の口ぶりだと、志乃ちゃんは彼を好いているみたいだからね」
楽しそうに口元を引き上げる田所に、志乃はぱっと頬を真っ赤に染める。
「そ、そういうわけでは……」
「じゃあ、どういうわけ?」
「そ、それは……」
志乃は半ば泣きそうな顔で口ごもると、真っ赤になった顔を隠すように下を向いた。