第十一話 離れの秘密(二)
志乃は手のひらにのせていた湯飲みを盆に戻すと、そっと立ち上がる。
そして吸い寄せられるように、離れの方へと足を向けた。
離れの部屋は、障子がすべて閉じられており、外からは全く中の様子はわからない。
志乃は庭を回り、恐る恐る建物に近づくと、木の戸の前に立った。
入り口の取っ手に手をかけ、力を入れようとして、一旦思い悩んで手を離す。
もしかしたら、花奏が中にいるかもしれない。
志乃は握った手を上げると、そっと戸を数度叩いた。
トントンという、乾いた音だけが響き、中からは何の音も聞こえてこない。
志乃は再び取っ手に手をかけると、引き戸をぐっと開いた。
戸はガラガラという重い音を響かせながらゆっくりと開き、志乃は恐る恐る中へと一歩足を踏み入れる。
薄暗い離れには、目の前の小あがりになった先に、一室部屋があるのみのようだ。
志乃はぎこちなく下駄を脱いで板の間に上がると、一度しゃがんで震える手で下駄を揃える。
膝をついたまま、そろそろと障子の前まで行き、静かに手をかけた。
心臓はバクバクと激しく動いている。
志乃は目をぎゅっと閉じると、そのまま「えいっ」と障子を横に引いた。
すっと障子が開く感覚に、志乃は目を閉じたままじっと待つ。
でも、辺りは何も変わりなく静まり返っているようだ。
志乃は、ゆっくりと閉じた瞼を緩めていく。
すると、うっすらとした視界に映ったものに、志乃は驚くとパッと目を見開いた。
夕日に照らされ橙色に染められた六畳ほどの座敷の真ん中、そこに置かれていたのは、それは見事な箏だった。
「なぜ、箏がここに……?」
志乃は思わず駆け入ると、箏の前に座り込んだ。
一目見ただけで上物とわかる箏は、音を奏でるのを今か今かと待ち望むように座している。
「なんて素敵な箏……。とても大切に手入れされている……」
志乃は思わずうっとりと箏を見つめた。
こんな上等な箏は、お師匠様の所でも見たことがない。
志乃は躊躇いつつも、箏の正面に回り込み腰を下ろした。
微かに震える手で、そっと一弦、上に引き上げ箏柱を立てる。
ぐっと強く弦が張られ、志乃は弦に親指をかけると、そのまま力を込めて弦を弾いた。
その瞬間、ピンとした音が室内に響き渡り、その音は志乃の全身を駆け巡る。
深く味わいのある音色が、この箏の持ち主を想わせる気がした。
「これは、どなたの箏なの……?」
志乃が小さくつぶやいた時、カサリと音がした気がして、志乃は慌てて顔を上げる。
開け放った入り口の障子からは、同じように開けた戸の先に庭が見えるだけで、他に変わった様子は見られない。
「思い違いかしら……」
小さく首を傾げた志乃は、箏柱を元に戻すと、そっと立ち上がる。
五木が言っていた、離れに何があるのかというのは、きっとこの箏のことだろう。
『もう志乃様は、お知りになっても良いでしょう』
あれはどういう意味だったのだろうか。
志乃はもう一度箏を振りかえる。
「これは、旦那様の箏なの?」
志乃はそうつぶやきながら、首を横に振る。
先ほど花奏がこの離れから出てくる前、箏の音は一切聞こえなかった。
それに、もし花奏が日常的に箏を弾くのであれば、箏爪が入った小箱や譜面は近くに置いてあるはず。
でもそれらは、部屋の隅に置かれた机の上に、丁寧に並べられていた。
「またわからないことが増えてしまった……」
息をつきながら入り口の障子を閉じた志乃は、下駄を履こうとして、ふと足元に一輪の秋桜が落ちていることに気がつく。
そういえばもう庭には、秋桜がちらほらと咲き出していたような……。
「さっきは気がつかなかったのね」
志乃はそっと秋桜を拾い上げると、重い引き戸をガラガラと音を立てて閉じたのだ。