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第十一話 離れの秘密(一)

「おや? 志乃様。どうされましたか?」


 うつむいて炊事場に戻ってきた志乃に、五木が不思議そうな声を出す。


 志乃は口のつけられていない湯飲みがのった盆を、そっと台の上に置いた。



「旦那様は、お部屋にいらっしゃいませんでしたか?」


 五木の問いかけに、志乃は声を出すこともできず、ただ首を横に振り、そのまま土間にしゃがみ込んだ。


 今何か声を出せば、一緒に涙も零れてしまう。


 さっきまでさんざん部屋で泣き、やっとここに戻ってきたというのに。



 すると肩を震わせて涙を堪える志乃の耳元で、五木がポンと手を叩いた。


「そうそう。美味しいお饅頭をいただいておったのを、すっかり忘れておりましたなぁ。志乃様、お茶にいたしましょうか?」


 五木はそう言うと、鉄瓶に入ったお湯を「よいしょ」と持ち上げ、とぽとぽと音をたてながら急須へ注ぐ。


 程なくして、玉露の香りがほんのりとたち込め出した。



「さぁさぁ、志乃様。今時分(いまじぶん)は縁側も風が通りましょう」


 五木は志乃に声をかけると、お茶の入った湯飲みを二つと、お饅頭がのった皿を盆に置き、縁側の方へと出ていく。



 志乃はゆっくりと顔を上げると、五木の丸い背中を見ながら外へ出た。


 うっすら日が傾き出した縁側は、五木の言った通り、風が流れている。


 志乃は縁側にちょこんと腰かけると、小さく息をついた。



 もう少ししたら、港には一時的に風がやむ、夕凪の時刻が訪れるだろう。


 人の心も風と同じように、凪いだり、吹いたりを繰り返しながら、いつかは通わせていくことができるのだろうか。



 ――でも、私と旦那様の心は、きっと通うことはない……。



 志乃は再び溢れそうになった涙を飲み込むように、湯飲みに口をつけた。


 渋みの中に広がるほのかな甘みは、志乃の傷ついた心に染みわたっていく。


 しばらくして、志乃はぽつりぽつりと口を開いた。



「旦那様は、私のことを(こころよ)くお思いでないのです……」


「志乃様?」


 五木は不思議そうな顔をしている。


「だってそうでしょう? 今まで旦那様に嫁いだ方は、皆亡くなっているのです。きっと私は、嫌われているから、今もこうやって生きている……」


 次第に声を震わす志乃に、五木は大きく首を横に振った。



「志乃様、そんなことを言ってはなりませぬ。旦那様は、決して志乃様を不快に思ってなどおりませぬよ」


 諭すような五木の声に、志乃はばっと顔を上げる。


「ではなぜ……? なぜ旦那様は、私を実家に戻そうとなさるのですか? もう自分に構うな、手紙もいらないなどと、突き放すようなことをおっしゃるのですか……?」


 志乃の頬を涙が零れ落ち、眉を下げた五木は、志乃の背中を優しくさすりながら「そうですなぁ」と遠くを見つめた。



「旦那様はきっと、戸惑っておいでなのでしょう」


「……戸惑う?」


「はい。人は誰しも、臆病なのでございます。自分の心が、少しずつ変わっていくことに恐れるものでございます。そしていつかは、過去を忘れてしまうのではないかと、不安になるのでございます」


 五木が言わんとしていることの意味がわからない。



「過去を……忘れる……?」


 小さくつぶやいた志乃は、初めて会った時から感じていた、花奏の苦しげな表情を思い出す。


 花奏の瞳にはいつも、深い悲しみと苦しみを押し殺したような色が映っていた気がするのだ。


 それが花奏の過去と、繋がっているというのだろうか?



 ――旦那様は、何を抱えているというの……?



 戸惑う志乃に、五木は優しくほほ笑んだ。


「もう志乃様は、お知りになっても良いでしょう」


「何をですか……?」


「離れに何があるかです」


「離れに?」


 志乃は顔を上げると、さっき花奏が出てきた、庭の奥の離れに目を向ける。


 そして、今は戸が閉まっている離れの入り口をじっと見つめた。


 決して入ってはならぬと言われていたあの場所に、花奏の過去につながる何かがあるというのか?



「さぁさぁ。私はそろそろ、夕餉(ゆうげ)の支度でも始めますかな」


 すると五木は「よいしょ」と声を上げながら立ち上がると、そのまま炊事場の方へと歩いて行ってしまった。


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