第十話 死神からの拒絶(二)
「待ってください。それはつまり、私は旦那様の妻ではなくなるということでしょうか……?」
たどたどしく声を出す志乃に、花奏は静かに目を閉じた。
「俺は元々、姿を現す気はなかったのだ。会うこともなく、お前を実家に戻すつもりだった」
「え……?」
「お前だとて、こんな見ず知らずの死神の妻になるなど、望んでいなかったはず。俺やこの家の事は、きれいさっぱり忘れてくれて構わない」
花奏はそう言うと、そっと椅子から立ち上がる。
志乃は部屋を出て行こうとする花奏を、慌てて呼び止めた。
「待ってください。なぜそんなことを言われるのですか? 確かに初めは戸惑いました。でも旦那様に手紙を書くうち、ここでの暮らしを大切に思うようになりました。出ていく気など……」
志乃がそこまで言った時、花奏が志乃の言葉を遮るように声を出す。
「それも、もう必要ない」
「え?」
志乃は訳がわからず、花奏に聞き返した。
「もう俺に、手紙を書く必要はないと言っている」
「……そんな」
志乃はうつむくと、花奏から贈られた着物の袖をぎゅっと握り締めた。
志乃の瞳には、次第に涙が溢れてくる。
「ではなぜ……なぜこの着物を、贈ってくださったのですか……? なぜ今日、演奏会にお越しになったのですか……?」
志乃の声は涙で震えている。
花奏は一瞬、躊躇うように視線を彷徨わせたが、ぐっと拳を握ると、志乃から顔を背けた。
「それは……ただの、気まぐれだ」
「気まぐれ……?」
「そうだ。気まぐれ以外、特に何も理由はない」
花奏はそれだけ言うと、愕然と佇む志乃をおいて、部屋を出て行った。
「そんな……」
酷く心をえぐり取られた志乃は、崩れ落ちるように畳に座り込む。
そして何度も花奏の言葉を繰り返した。
着物とチラシが部屋の前に置かれていた時、志乃は死神からの返事だと思い心を高揚させた。
やっと死神と、心が通じたのだと思った。
でもそれは、ただの気まぐれだったというのか……。
志乃の頬を、次から次に小さな涙の粒がつたっていく。
気がつけば志乃は、声を殺して泣いていた。
せっかく会えた“死神の旦那様”に、聞きたいことが山ほどあった。
知りたいことも山ほどあった。
でも、それを聞くことも、お礼すら伝えることも叶わぬまま、死神は志乃のことを拒んだのだ。
「やっとお会いできたのに。あの日、助けてくださった方が旦那様だったなんて、運命だと思ったのに……」
志乃はしゃくりあげながら、両手で胸をぎゅっと掴む。
胸が苦しくてたまらない。
心が痛くてたまらないのだ。
そしてその時、志乃はやっと自覚した。
毎日死神に宛てて手紙を書いていた志乃は、自分でも気がつかない内に、死神への想いを大きく募らせていたのだということに……。
そしてそれは今日、死神の正体が斎宮司花奏という人物だったとわかり、確かな恋心として志乃の中に生まれたのだ。
「それなのに……もうお別れだというのですか……?」
志乃はそのまま、しばらくその場から動くことができなかった。




