第十話 死神からの拒絶(一)
「志乃様、こちらを旦那様に」
五木はそう言うと、志乃に湯飲みの置かれた盆を手渡す。
「はい……」
志乃は盆を受け取ると、静まり返った廊下を、そろそろと花奏の部屋へと向かって進んだ。
軍楽隊の演奏会場で、志乃は初めて死神の正体を知った。
それは街の噂とは程遠く、穏やかで美しい人だった。
志乃は初めて乗ったガタクリと鳴る自動車の中で、風に髪を揺らす花奏の横顔をそっと見つめる。
花奏がなぜ今まで志乃に会おうとしなかったのか、なぜ今日だけ谷崎と話す志乃の前に姿を現したのか、理由は何もわからない。
自動車に乗って以降、花奏は硬く口を結び、腕を組んだままだ。
志乃はもう一度、あまりにも整って美しい花奏の横顔を伺った。
印象的な目は、静かに前を見つめている。
でも、その澄んだ瞳の中に時折映る、どこか悲しみを押し殺したような色は、死神と呼ばれる何か深い事情を、隠しているのではないかと思わせるのだ。
程なくして自動車は屋敷の前に到着し、車を降りた花奏は、何も発することなく自分の部屋へと入ってしまった。
志乃はぎしぎしと鳴る廊下を進みながら、もう一度盆を持つ手にぐっと力を込める。
花奏に聞きたいことは沢山ある。
それでもまずは、今までしてもらったことへの、お礼をしなければならないだろう。
――旦那様に、きちんとご挨拶するのよ、志乃。
すると、ぐっと自分にうなずいた志乃の目線の先で、ふと人影が動いたのを感じ、不思議に思って顔を上げる。
その途端、志乃はどきっと心臓を飛び上がらせた。
庭の奥にある離れの戸が開き、花奏が出てくるのが見えたのだ。
花奏はさっきまで着ていた、外出用のスーツから着替えたようで、一転して緩い着流し姿に変わっている。
その姿があまりに麗しく、志乃は小さくため息をつくように足を止めた。
しばらくぽーっとしていた志乃は、花奏が出てきた離れを見て、今度は小さく息をのむ。
あそこは志乃が五木から、決して入ってはならぬと言われている場所。
――あそこは、旦那様のお部屋だったの……?
志乃は戸惑いながら小さく首を傾げる。
すると志乃の存在に気がついたのか、母屋へ戻ってきた花奏は、顔を上げると「志乃、こちらへ」と言った。
「はい……」
志乃は小さく声を出し、そのまま廊下を進んで花奏の後をついていく。
花奏は廊下を曲がると、突き当りの自分の部屋へと入って行った。
遅れて部屋に入った志乃がそっと目線を上げると、花奏は書斎机の椅子に腰かけて、静かに顔の前で手を組んでいる。
志乃はどきどきと高鳴る鼓動を感じながら足を進めると、花奏の視線を感じながら、そっと湯飲みを机に置いた。
静かな沈黙が二人の間を流れ、たまらず志乃が声を出そうとした時、先に花奏が顔を上げる。
「志乃。お前はいずれ、実家に戻る身だ」
突然の花奏の言葉に、志乃は大きく瞳を泳がした。
「実家に……戻る……?」
「そうだ。だからもう俺の事には構わず、お前は金だけもらって、与えられた仕事をしていればいい。そして母親が回復したあかつきには、遠慮なくこの家を去れ」
落ち着いているが、どことなく突き放したような花奏の言葉に、志乃の心は激しく動揺する。




