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第一話 事の始まり

 柔らかな風がそっと頬を撫でていく。


 ボーっという船の汽笛を聞きながら、志乃は大きな門構えの家を後にした。



 今日は週に一度の(こと)のお稽古の日。


 熱が入ったお師匠様(おっしょうさま)の指導のせいか、お稽古の後はどっと疲れが押し寄せてくる。


 志乃は一旦足を止めると着物の胸元にしまったハンケチを取り出し、じんわりとにじむ汗を拭うように、そっと額にあてた。



 瀬戸内海の内部に位置するこの港町にも、そろそろ初夏の足音が聞こえている。


 一年を通して温和なこの地域は、夏は短く、そのぶん少し蒸し暑い。


 志乃は汗を拭ったハンケチを胸元に戻すと、多くの商店が立ち並ぶ通りへと入った。



 ふと顔を上げると、着物姿に日傘をさして、楽しそうにほほ笑む女性たちがやってくるのが見える。


 そのモダンな装いに、志乃は思わず足を止めて魅入ってしまった。



 時は大正。


 和洋折衷の様々な感覚が花開き、伝統にとらわれないモダニズムの波は、志乃の暮らすこの街にも広がっている。


 女性の社会進出の機会も増え、颯爽と街並みを歩く様は女学生たちの憧れの的だった。



 うっとりとため息をついた志乃は、我に返って慌てて顔を上げる。


 二人の妹を、ご近所さんへあずけて出てきているのを思い出したのだ。


(はな)(ふじ)を迎えに行って、すぐにお米を研いで……」


 志乃は指を折りながら、ぶつぶつと独り言をつぶやく。



 志乃の家には父がいない。


 一番下の妹が生まれてすぐに病気で倒れ、そのままあれよあれよという間に亡くなった。


 父は尋常小学校で校長をするほどの人物だったが、かなりの酒好きで、校長室で酒を飲み、鹿が出たと聞けば仕事中でも構わずに、猟銃を持って飛び出して行くような人だった。



 そんな父に母はどれだけ振り回されたか知れない。


 それでも文句ひとつ言わず父についていた母は、父の死後は自分も教師となり、女手一つで志乃たち三姉妹を育ててきた。


 そんな母を見ていたからこそ、志乃はできる限り母を助けたいと思っているし、それが長女である自分の務めだと思っている。



「急がなきゃ……」


 多くの人が行き交う道を、下駄を鳴らしながら縫うようにして足を進める。


 そこで焦ったのがいけなかった。


 志乃は道行く人の肩にぶつかり、身体を大きく跳ね飛ばされてしまったのだ。



 ――あぁだめ……。



 小さな悲鳴を上げながら倒れることを悟ったその瞬間、志乃の身体は背の高い男性の腕に抱きかかえられていた。



 咄嗟に顔を上げた志乃は、驚いた様子で志乃を見下ろす男性の顔を見て、思わず息を止める。


 なんと麗しい男性なのだろう。


 透き通るような白い肌に、印象的な切れ長の目。


 まるで夢二の美人画かのように美しい男性に、時も忘れて見とれてしまった志乃は、はっと我に返ると、慌てて男性の腕から飛び跳ねるように離れた。



「も、も、申し訳ございませんっ」


 志乃は勢いよく頭を下げると、膝に額をこすりつけそうなほど身体をかがませる。


 すると下げた目線の先で、男性の黒く磨き上げられた革靴が揺れた。


「お怪我はないですか?」


 男性はくすりと笑っているようだ。


「は、はい……」


 志乃は頬を真っ赤にさせながら、もじもじと目線を上げる。



 男性は、年の頃は志乃よりも十ほど上だろうか。


 黒いスーツ姿で、中折れ帽を被り、ステッキを持つ様は、なんともハイカラだった。



 ――こんな素敵な紳士に、私なんてことを……。



 志乃の頭の中では、早々に結婚して学校を辞めていった友人たちとの、ロマンチックな会話が浮かぶ。



 すると思わずぽーっとしてしまった志乃の前で、男性は地面に落ちた志乃の風呂敷包みを取り上げた。


 風呂敷包みは落ちた際に結びがゆるんだのか、ほつれて中に入っていた箏の譜面が顔を覗かせている。


 それを見た瞬間、男性が小さく息をのむのが伝わった。



「……箏……か」


 首を傾げる志乃に男性はつぶやくようにそう言うと、どこか苦しげな目をしながら、志乃に風呂敷包みをそっと手渡す。


「あ、ありがとう存じます」


 志乃は受け取った風呂敷包みを胸の前でぎゅっと抱きしめると、再び深々と頭を下げた。



「旦那様、そろそろ」


 すると側に立っていたらしき、誰かの声が聞こえて来る。


「あぁ、そうだな。では、失礼」


 男性はそう言うと、そのままくるりと志乃に背を向けた。


 その瞬間、一つにくくられた男性の長く艶やかな黒髪が、サッと風に揺れ、その弧を描くような流れが、残像のように瞼に刻まれる。



 どうも男性は車を待たせていたようで、道の脇に停めてあった四角い馬車のような自動車へ乗り込むと、そのままガタクリと鳴る音とともに消えていった。


 志乃は、物珍しそうに自動車に集まっていた通行人に混じって、立ち去る車の影をそっと遠くから見送った。



 まだ全身がどきどきと火照っている。


 あんなに近くで、大人の男性と面と向かったのなんて、初めての経験だ。


 それもあんなに美しい男性に。



「あんな方がこの世にいるなんて……」


 志乃の口元から思わず言葉が漏れ出る。


 そのまま志乃はしばらくの間、美しくて儚く今にも消えてしまいそうな男性の、風になびく長い髪を、ぼんやりと思い出していた。


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