第六話 死神の本心(一)
花奏は玄関に入った途端、屋敷の雰囲気がいつもと違うことに気がつく。
置いているものは何も変わっていない。
でも数日ぶりに帰ったこの屋敷の空気が、どことなく明るく穏やかなのだ。
不思議に思い首を傾げた花奏だったが、ここ最近は外に泊まることが多く、そのためだろうと思い至る。
なぜ屋敷に戻らなかったかといえば、それは新しい妻を迎えたからに他ならない。
ただ、妻と言っても一時的なもので、時が来れば実家に戻ることになるだろう。
だからこそ花奏は、妻となった者に、会わない方が良いと判断したのだ。
するとぼんやりと立ち尽くす花奏の耳に、背後からフォッフォッと笑う声が聞こえてくる。
いつも花奏の側に仕えている五木が、弁当を運んだ大きな籠を抱えながら入ってきたのだ。
今日は久しぶりに療養所へ顔を出してきた。
花奏はだいぶ伸びた自分の髪に触れると、もうあれから何年経ったのだろうかとふと考える。
そして何年時が経っても、花奏の心はあの日から止まったまま動けずにいるのだと……。
「いかがですか? この家も、見違えるように明るくなりましたでしょう?」
すると「よいしょ」と籠を置いた五木が、嬉しそうに笑顔を見せた。
「まあ、そうだな」
花奏は革靴を脱ぎながら、小さく答えた。
「ほらそこも、きちんと整頓されておりますでしょう? 志乃様は何事にもひたむきで、仏間の掃除だとて、本当に熱心にされるのですよ」
五木の声を聞きながら、花奏はつい最近妻として家にやってきた志乃という者の姿を思い出す。
――確かに、健気でとても素直な印象の娘だった。
花奏はそんなことを思うと、五木には何も答えず、そのまま自分の部屋へと向かった。
よく磨かれた廊下を進み、途中そっと仏間を覗く。
月明かりの差し込む部屋では、花菖蒲が優しい薄紫色の花びらを光に照らしていた。
ほのかに漂う草の香りと線香の残り香を感じながら、花奏は自分の部屋の障子を開ける。
部屋に入り電球を灯すと、目の前に普段花奏が着ている紬の着物が、羽織と共に衣紋かけにかけられているのが目に止まった。
どうも丁寧にアイロンをあてたのか、清々しいまでに皺ひとつない。
「志乃様が、疲れて帰ってきた旦那様が、心地よく袖を通せるようにとおっしゃって、丁寧にアイロンをあてておいででしたよ。紬ですし、必要はないのですがな」
再び後ろから五木の声が聞こえて来て、花奏は軽くため息をついた。
「五木、お前は俺の背後霊か何かか?」
「いえいえ、めっそうもない」
五木は大きく頭を振ると、フォッフォッと笑いながら、花奏の背広の上着を受け取る。
花奏の嫌味にもこんなに嬉しそうな顔をするところを見ると、五木は随分と志乃を気に入っているようだ。
――そういえば、弁当を食べた子どもが「このにぎり飯は特にうまい」と言っていたな……。
ぼんやりとそんなことを思い出しながら、アイロンのあてられた着物に袖を通す。
パリッとした着心地は、部屋で着るには少々清々しすぎる気もするが、自分の事を思い用意してくれた心根が、ほんのり嬉しく感じた。
着替えを済ませた花奏は、書斎机の前に来ると、ふと置いてある手紙に目をやる。
仕事関係の手紙の隣に、見慣れない封書が一通置かれていることに気がついたのだ。
不思議に思いながら手紙を取り上げた花奏は、途端に目を丸くする。
表には“死神の旦那様へ”と書かれていた。
「……死神の旦那様?」
つぶやく様な花奏の声に、再び五木がひょいと顔を覗かせた。
「志乃様は、冗談もお上手ですなぁ」
五木のフォッフォッという笑い声を聞きながら、花奏は椅子に腰かけるとそっと手紙を広げた。