一滴の粒 〜blessed rain〜
手前の建物は無数に引っ掻かれた白い爪痕が残り、遠くに見える建物は薄い灰色のペンキを被せられたようだ。
黒い土で舗装された平坦な道に、無数の白いフキノトウが咲き乱れる。
空を見上げれば、白いキャンパスに灰色をぶちまけただけの殺風景。
今日は朝から雨だった。だから、歩きながらずっと傘を差していた。ようやく最後の手紙を配り終えた時、急に強く風が吹いて傘の骨はバキバキに折られてしまった。突風を合図にするように、バケツをひっくり返したような土砂降りが始まった。
ずぶ濡れになりながらも、他に選択肢はないのでトボトボと歩く。
夜が更けてくると、藍色がどこからから染み出してきた。暗さは増しているはずなのに、景色に少し彩りが加えられる。濃紺の夜空には、点々と白い光が見える。
巨大な獣が抉ったような白い傷跡が、道に刻まれている。街灯に照らされて、濡れた地面が光りを紡いでいるのだ。
そんな雨と光の芸術が目に入ってもグルーミイの心が揺れることもなく、ただ記憶に沿って足を進める。
いつも使っている細い裏道が、冠水で道が塞がれていた。
「僕が帰れる場所なんてないのか。」
仕方なく引き返す。
雨の勢いは落ちそうにない。途中、ドアが開いていて雨宿りできそうな建物があったので、吸い込まれるように入る。
座ってため息をつく。考えごとをする気力もなくかといって眠いわけでもなく。名前のない状態で座ったまま、時間がただ過ぎていく。
雷が鳴り、今の状況を思い出す。顔を上げるとその部屋には家具などはなく、四方を見渡すと剥き出しのコンクリートになっていた。
そこで、この建物が最近廃業になった廃墟のビルになったことに気づく。たしか10階はあっただろうか。
グルーミィは急に屋上からの景色が気になり始めた。雨でずぶ濡れた心を晴らすために、なにか非日常的な刺激が欲しかった。のそのそと立ち上がり、雨で重量を増した足で階段を登っていく。
「おーい、グルミンか?」
階段の後ろから声が聞こえた気がした。聞き覚えがある気がするが、どうでもよかった。今はただビルを登りたい気分だった。
「ちょっと待てよ!」
さっきよりも近くで、声がした。鬱陶しい。追いつかれたくなくて、疲れた足をムリヤリ上げていく。
階段を上り切ってドアを開けると、真っ暗な闇の中に、いくつもの光が見えた。
「キレイだなぁ。あそこ行きたいなぁ。」
そう呟きながら、光の花畑に向かって歩く。
そこで突然、歩けなくなった。
そこに『地面』はないからだ。
頭を下にして落ちていく中で、グルーミィは今の自分の状況を察する。
自由落下しているのに、ゆっくりと感じるのは走馬灯に入ったからだろう。
物心ついた頃の記憶にある場所、出会った人が次々と現れては消えていく。
小さい頃によく遊んでいた公園。ぐるぐる回る遊具で他の景色は霞むが、向かいで捕まっている友達の顔だけはピントが合ってよく見える。
学校で行った旅行先で、現地の辛い漬物にびっくりして、ご飯をかきこんでいる風景。
両親が2人で近所の噂話をしている光景。いつも同じ話だから、いつの記憶は定かじゃない。
手紙の届け先を間違えてお客さんにバレて、次の日ノスウィンさんに怒られた景色。
学生時代が終わった後に出て来た人物は、両親と職場の人の思い出だけ。
最後に見たのは、金色に輝くサックスと、それを楽しそうに吹く男。
意識が戻る。
目を開ける前に、背中に何か温かさを感じた。
それはどうやら『人の手』だった。
状況が飲み込めず、ゆっくりと目を開ける。目の前に見えたのは、記憶の中でサックスを楽しそうに吹いていた男の顔だった。
「カンテラ?」
「グルミン、目が覚めたか。」
カンテラの声も顔もリアル過ぎる。どうやら天国でも夢でもないらしい。よくわからないが、10階のビルから飛び降りたのに助かったようだ。
「僕、今どういう状況?」
「一言でいうと、相合傘かな。」
カンテラの言葉で余計に謎が深まる。
だがカンテラの顔をもう一度よく見ると、その後ろには開いた傘の内側が見えていた。たしかに傘は見えたが、それでも意味がわからない。視界の右にはカンテラの胸らしきものが見えた。まだ状況はよくわからないのだが、とりあえず自分はカンテラに、『お姫様抱っこ』をされているらしい。情報が増えるたびに、謎が謎を呼ぶ。
見た目は華奢だがグルーミィは男だ。別に『ソッチの趣味』もないので、この体勢の是非よりも気になることがある。状況を把握するために、頭を左に向けてみた。
「うわっ!!!」
「おい、あとちょっとで着くんだから暴れないで。」
「ごめん」
起きあがろうとした体は、すぐにカンテラに優しく抑えられた。左側の景色がどうやら空中らしいことにびっくりして、大きな声を出してしまったのだ。
「まさか僕ら、傘で浮いてる?」
「正解だよ、少年。今ちょうど終わったけどな。」
カンテラが言い終えると同時に、ピチャッと体の後ろで音がした。
「立てそうか?」
「うん。」
カンテラはゆっくりと腰を下ろし、グルーミィの足を支えていた右手を少しずつ下ろしていく。そこでグルーミィは足の裏に冷たさと同時に、久しぶりに安心感を得る。
「あそこにベンチがあるから座ろう。」
「うん。」
言われるがまま、グルーミィはベンチに座った。
「ほい。」
顔を上げると、カンテラは茶色い紙袋を渡してきた。
「コレは何?」
「今日は月が見えないから、グルミンのために三日月を用意したんだ。」
「ごめん、意味がわからない。」
「まぁいいさ。要するに、この前のレストランのお礼だ。」
「カンテラの演奏のおかげで結局タダになったんだから、僕お金使ってないよ?」
「お礼は、奢ろうとしてくれた『心意気』にだよ。いいから開けてみて。」
促されるまま袋を開けると、中身はクロワッサンだった。こんがりと焼けた三日月を見ると、いつのまにかかぶりついていた。
最初に歯にあたったパリッとした食感はすぐに崩れる。普通のモノより何倍もの生地を積み重ねているから、ふわふわになっている食感。
噛んで生地の空気を抜いていくと、少し遅れて感じるバターの甘み。同時に香りも鼻を抜けていく。
そういえば、まだ夜ご飯を食べていなかったんだったと思い出す。
「おいしいか?」
「うん。」
暦上は新月。だが、手元にある三日月がグルーミィを優しく照らしてくれていた。
一面を藍褐に染めきった夜空では、もう雲の有無は視覚ではわからなかった。だがそよ風だけを感じている全身の触覚で、雨は上がったことがわかる。
今は少年の右頬にだけ、一滴の雨粒が流れ落ちていた。
flurry 1にわか雨、2突風 3動揺、混乱
stationary front停滞前線
blessed rain 恵の雨
gloomyどんよりした天気。陰鬱な。
bright晴れた。明るい。
azure sky 紺碧の空