一滴の粒 〜flurry〜
大きな白いバッグを背にした少年が、とぼとぼと細い路地を歩いている。バッグの紐は少年の腹を斜めに白く区切り、本体は背中を隠すほど大きい。いわゆるショルダーバッグ、メッセンジャーバッグともいうものだ。奥行きにも厚みがあり、本来ならたくさんの荷物が詰めそうだ。だが今は中身が空っぽなのか、へこんで張りのない形をしている。少年の歩みに合わせて、寂しげに揺れていた。
すれ違う人もおらず、少年のため息を漏れる以外は音のしない。太陽は沈みかけ、路地は西側に建つ家の影で埋まり始めていた。
石畳のある広場に足を踏み入れた時、少年は咄嗟にハンチングの短いツバを右手で延長させる。両側を家に囲まれた路地から急にひらけた場所に出たので、突如夕陽の光をまともに正面から浴びたからだ。太陽に少し背を向けながらも、家路を急ぐ足は止めない。
多くの人が仕事を終えた帰りを狙い、商人たちが呼び止めるために活気のある声を張り上げる。それぞれ夕方のひと時を満喫している声に混じって、楽器の音が聞こえてきた。
人間の声のような、伸びやかな音色が鳴り響く。
少年の足が進路を変えて、楽しげな音のほうに導かれていく。
そこには、独りで楽しそうに楽器を吹く男がいた。
この辺では見かけない格好をしている。ハイビスカスが描かれた派手なピンクのシャツを纏い、ボタンが開いた隙間からは、薄緑のヤシの木柄模様が見える。最近は少し肌寒くなってきたが、パンツは七部丈だ。ちなみにパンツは虎柄だった。
その楽器は、男の口から足の付け根あたりまで伸びている。そこで大きく湾曲して上昇し、その先で大きく口を開けている。夕陽を浴びて全身が金色に輝く、サックス。
自分の演奏にノって、楽器男は体をのけぞらせたり、深くしゃがんだりする。体が揺れるたびに、ウェーブした金髪がなびき、遊ばせている毛先が踊り出す。
少年は、その光り輝く楽器から目が離せなくなっていた。視界には、夕陽に照らされたサックスが黄金色に輝き、まるで命を吹き込まれたように見えた。音楽に感動したというより、今にも歌いだしそうなサックスそのものに心を奪われていた。仕事道具である白いバッグの中に詰まっていた、湿地のような陰鬱とした霧も晴れ、色鮮やかな花が咲き誇る草原地帯が似合う爽やかな風が流れていた。
この広場では路上演奏は珍しくもない。だが、圧倒的な技術で生み出すメロディと、何より楽しそうな演奏に、段々と足を止める人が増えていく。
ひときわ激しいビートを刻んだのち、ロングトーンを夕焼けに染まる空に向かって放つ。
余韻に浸っているのがわかるほどの満足げな顔で、マウスピースから口を放す。一曲吹き終えたようだ。ようやく現実の石畳の広場に意識が戻ったのか、目の前で拍手を送る観客に気づいた。
「にいちゃん、イイ演奏ありがとな!」「感動しました!」
「どうも!よかったら投げ銭くださいな。」
演奏者がそう言うと、ピタリと拍手がやんだ。
「悪い、手持ちがなくて。」
逃げるように立ち去る陽気なおじさん。
「ごめんなさい、さっきの買い物でほとんど使っちゃって。」
申し訳なさそうに、買い物のお釣りの30ソルを置いていく若い主婦。
みんな財布事情が厳しいのか、蜘蛛の子を散らしたようにそれぞれの家路へと向かう。
「世知辛いねぇ。」
言葉の意味とは裏腹に、どこか楽しそうな楽器男。
そんなやりとりの中、他の客の言動を意に介さず、唯一残っていた少年の視線は今もサックスに釘付けになっていたままだった。
「おっ少年、オレの演奏に惚れたか?」
「すごく感動しました!まるでたくさんの人が歌っているような演奏でした!」
「嬉しい言葉だね〜!」
「それ、なんていう楽器ですか?」
「コイツは、キャリベル。オレの相棒さ。」
「なんか人の名前みたいな楽器ですね。」
「イイ名前だろ?これを作ってもらった時に、ふっとインスピレーションが湧いてきたんだ。」
『うわ、この人楽器に名前をつける人なんだ。』と少年は思ったが、言葉を呑み込む。演奏に夢中になって気づかなかったが、よく見ると、男の上半身は柄シャツを重ねており、下は柄パンだった。
「すいません、楽器の種類を聞いたつもりだったんです。」
「悪い、知りたいのはソッチだよな。テナー・サックスだ。」
「それなら聞いたことあります!」
「この地域でも知られてるなら営業しやすそうだな。さっきは失敗したけれど。」
「でも、本当に感動しました!あの、これ少ないですけど、」
そう言って少年は、今日稼いだ5000ソルを取り出す。
「『カネのために吹いたんじゃねえ!』ってかっこよく言いたいとこだけど、あいにく一文無しなんだ。昨日会った女に貢いじゃったからな。その金でメシ奢ってくれないか?」
「お安い御用です!」
お金がない理由は少し気になったが、それ以上に少年は、この感動した気持ちの恩返しがしたかった。
「すごくよく食べるんですね、、、」
「今日は一日サックス吹いてたから腹へっちゃってさ!ただ食ってるだけなのに褒めてくれてありがとな!」
いや、褒めたわけではないのだが。
店内はクリスタルのシャンデリアが光り、白いクロスが敷かれたテーブルが並んでいる。少年は、自分が普段入る食堂とはあまりに違う空気に息苦しさを覚えた。
今、2人はシーフードレストランで食事をしていた。少年は目の前のテーブルが埋まるほどの料理を目にしながら、路上演奏で知り合っただけの男に安易に奢ると言ってしまったことを後悔していた。安月給なのに、演奏の興奮に浮かれて高級店に連れて来てしまったことも。
「お姉さん、さっきの魚のムニエルください!」
「ご注文ありがとうございます!」
「すいません、今僕らの注文したのっていくらになりますか?」
楽器男はまだ食べたそうにしていたので野暮だとは思ったが、怖くなって店員さんに確認せざるをえなかった。
「今のご注文で、5万ソルになります。」
「そうですか、、、」
自分の10日分の給料の数字を告げられ、既に手遅れであったのを痛感した。
「お姉さん、もうちょっとマケテくれないか?」
「申し訳ありません、当店ではそういったサービスをしておりませんので。」
少年の沈んだ顔を見てさすがに察したのか、楽器男は交渉に入ったがつれなく断られる。
「わかった!じゃあオレが今からコレを吹くから、演奏が良かったら少し安くしてくれよ。」
「店内の演奏になりますと、店長に了承していただかないと。」
「じゃあ店長呼んできてもらえる?」
「かしこまりました。」
お姉さんに連れられて、口髭を蓄えた穏やかそうな老紳士が現れた。
「お客さま、申し訳ありませんが、当店では一切割引はしておりません。」
「それは演奏を聴いてからじゃダメ?」
「そちらにつきましても、他のお客さまにご迷惑がかかりますので演奏はおやめください。」
「じゃあさ、店の外で判断してよ、規則じゃなくて店長さんの耳でさ。」
少し渋い顔をしていたが、高級店の長としての自覚なのか、すぐに顔を戻す。
「承知しました、ではこちらへ。」
この店に似合わない派手な格好をした客の言動を見て、たぶん気の済むまで譲らないと観念したのか、店長は一旦従うことにしたようだ。
外から、サックスを吹いている音が漏れ出る。会話に夢中になっている他の客には聴こえない音量だったが、店内に1人残されたツレの少年が居心地の悪さを忘れさせてしまうには十分だった。
ドアから戻ってきた店長さんは、少年と同じ表情をしている。店長さんは楽器男に軽く一礼し、店内の少し開けたスペースを手で促す。楽器男は、指定された場所へ歩いていく。
到着すると、首にぶら下げた楽器から伸びたマウスピースに口をつける。店中から、賑やかな談笑が聴こえる。ただその声はどれも、楽器男には届いてはいなかった。
始まりは静かだった。
給仕係が慣れた手つきで料理を運び、客は会話を続けながら料理にナイフを通す。10分前と変わらぬ光景だ。
演奏は徐々に、音量と熱を帯びてくる。
屋内なので、路上の時よりも音がキレイに反響する。
艶やかなロングブレスで店内の空気は優雅に揺れ、給仕係の足が止まった。
1人で演奏しているとは思えないほど、多彩な音が紡がれていく。
さっきまで多くのテーブルで会話が盛り上がっていたが、今は多くの客がサックスの音に浸っていた。
サックスの音が、まるで店の天井を突き抜けて空へ消えるように高く伸びた。店内の空気が振動しているのを感じたのか、周囲の観客たちは思わず息を飲む。少年は、今にもその音に飲み込まれそうな気がした。
演奏を終えると、一斉に拍手が鳴り響いた。
「店長さん、これで半額にしてもらえるかな?」
「いえ、今夜のお会計は必要ありません。」
「マジで!?太っ腹ぁ!」
「こんなに素晴らしい演奏でお店を盛り上げていただいたので。あの、よろしければこの店の専属演奏者になっていただけませんか?給金は弾みますので。」
「考えとくよ。」
「快い返事をお待ちしております。」
店長さんは深く礼をして、店の奥に戻っていった。
他の客はまだ余韻に浸っている者もいたが、店員はさすがに仕事を思い出したのか足を動かし始めていた。
最初に話していた店員のお姉さんだけが残って、楽器男を見つめている。
「お姉さんはどうだった?」
「私、感動しました!こんなすごい演奏聴いたの初めてです!」
そう言う彼女の目には涙が浮かんでいるので、感想は本当なんだろう。声色も、さっき注文を聞いていた事務的な返しとは全然違って華やいでいた。
「嬉しい言葉だね〜!」
「あの、なんて言う楽器なんですか?」
「アルトサックスていうんだ。」
「あれ、さっき言ってた名前と違くないですか?」
少年は咄嗟に声が漏れてしまった。というか目の錯覚だろうか、楽器が少し小さくなっていないか?演奏してた時の音域も少し高かったような。
そんな少年の疑問のつぶやきは回答者の楽器男に届くことなく、熱を持ってお姉さんに話しかける。
「いやぁ、お姉さんみたいなキレイな人に聴いてもらえて、オレも嬉しいよ。」
「先ほどは失礼な態度をとってしまい、申し訳ありませんでした。」
「いや、普通はそうだよな。オレは美人に冷たくされるのも好きだからお構いなく。」
「楽器がお上手なだけじゃなく、お優しくもあるんですね!演奏にもお人柄が表れていました!」
「嬉しい言葉だね〜!」
「いえ、こんな言葉じゃ足りません!あぁ、どうやったらこの感動を伝えられるんだろう。」
「そうだ、コレ触って見る?」
そう言って、サックスをグッとお姉さんに突き出す。
「いいんですか?」
「そんなに喜んでくれてるならね。ただ、キャリベルは気難しいから、優しくね。」
「楽器に名前をつけて愛されてるんですね、ステキ!」
「いやぁそれほどでも。そういえば君の名前は?」
「クァーンチと言います。」
「クァーンチ、サックスしよ?」
「なんか響きが下品でヤダ。失礼します。」
楽器男の軽口に、和らいでいた空気が冷える。店員はまた事務的に戻った声色で返答だけして、去って行った。
「今の何がダメだったん⁉︎ホント女ってわかんねぇ〜。やっぱ男同士が1番だよな!ほら、少年、食え食え!」
「僕のオゴリなんですけど。」
「そんなカタイコト言うなよ〜。傷心した親友に優しくしてくれよ〜!」
「『親友』の財布に優しくない量食べておいて、よく言いますよ。」
「ちゃんと演奏でチャラにしただろ?」
「結果論ですよね?店長さんが厄介な客を納得させるために、いろいろ察してくれたのもあると思いますけど。」
ひねくれてるなぁ〜。もっと人の好意は素直に受け取るもんだぜ?」
「アナタはもう少し考えて行動した方がいいと思いますよ?いい大人が無一文なんて。」
「どうしたよ急に。荒れてんなぁ〜。もう一曲吹こうか?」
「さすがに恥ずかしいので、店内ではもうやめてください!」
「じゃあさっきの広場ならいいの?」
「まぁ、それなら聴いてあげてもいいですけど。」
「素直じゃないね〜。よし、オレも吹きたくなってきたし行くか!クァーンチ、店長さん、ごちそうさまでした!」
夕闇が夜へと移り変わり、すっかり薄暗くなった道を二つの影。バッグを揺らしながら歩く少年と、サックスをズタ袋にしまって両手を頭の後ろで組みながら歩く楽器男。その背中には、それぞれの歩幅に応じたゆったりとした時間が漂っていた。
「あ〜あ、もう少しでクァーンチを飯に誘えそうだったんだけどなぁ!何がいけなかったんだろ?」
「楽器に名前つけてるトコじゃないですか?」
「いや、そこまではクァーンチもテンション高かっただろ?」
「じゃあわかんないです。」
「少年まで冷たい反応しないでくれよ〜。そういえば少年の名前を聞いて無かったな。」
「たしかに名乗ってなかったですね。僕はグルーミィ・ブライト・アズールスカイ
です。アナタは?」
「改めてよろしくな、グルミン!オレはカンテラって言うんだ。」