波の律動
駅に降り立つと、正面からの風が肌を撫でて歓迎する。乗車駅よりも強くて湿った風は、ユウドウの好奇心を膨らませる。見慣れない景色を軽く見渡すと、地図に視線を移す。南に向かう道だけを確認すると、深呼吸をひとつ。停滞した空気を割るように一歩を踏み出した。
まばらな人通りが続く飲食店の通りは徐々に住宅街へと変わり、やがて道幅も細くなっていく。
白い欄干の歩道橋が視界に現れた。磯の香りが鼻をかすめた途端、胸の奥に眠っていた期待が、はじけるように広がり始めた。歩道橋の階段を一歩ずつ登るたびに、胸の奥に眠る鼓動が高鳴るのを感じた。そして、歩道橋の頂上に立った瞬間。
目の前には海が広がっていた。
薄曇りの空が灰色の帷を垂らし、海は深く静かな鏡のようにその色を受け止めていた。まるで地球が一息ついているかのような、静かで物憂げな光景だ。しかし、そのどこか沈んだ色彩の中でも、波は白く輝き、砂浜にリズムを刻んでいた。
石段を降りると、砂浜がすぐ目の前に広がった。ひとすくい、砂をつかむ。手のひらを開くと、粒の大きな砂は心地よいザラリとした感触を残して指をすり抜けていく。ほんのり湿った冷たさが肌から染み込んでくる。
遠くの岩場には鋭く突き出た烏帽子岩が、漆黒に近い濃灰色で風景のアクセントを加えている。それはまるでこの曇り空の支配から逃れ、自らの存在を誇示しているかのようだった。
トンビの甲高い鳴き声が空気を切り裂き、時折、風に乗って潮の香りが漂ってくる。そのたびに自然が生きていることを実感する。ユウドウは、周囲の喧騒をかき消す海と風の調べに耳を傾けた。そのうち、自分の口からも音が漏れ出る。気づけば、知っている海の歌をハミングしていた。何年か前に聴いた民謡のため歌詞はうろ覚えだったが、耳に馴染んだメロディーだけが次々と鼻から溢れ出てくる。それが次第に大きくなり、まるでこの自然と交じり合いたいとでも言うように、声を張り上げて歌い上げる。
どれくらい経っただろうか。太陽が見えないので時間はわからないが、ユウドウは臀部の冷えを感じて石段から腰を上げる。風も少し肌寒く感じられてきたので、海を左手に見ながら砂浜沿いの道を歩き始めた。
竹の囲いに挟まれた細道を進むうち、肌を叩いていた海風は和らいだ。しかし、左手から聞こえる波音は、相変わらず力強く耳に届く。それどころか、風の音が消えた分、波の音の一つひとつがよりクリアになった。時折、分散を忘れたために生まれた大波が砕け散っただろう轟音が、竹を押し除けて耳の奥深くで反響している。
『波って、なんで生まれるんだ?』
ふとユウドウの心に疑問が浮かぶ。この膨大な水の営みのエネルギーは、果たしてどこから生まれているのだろうかと。
沖合に潜むクジラの魔物が、地上の生物を海に引き摺り込もうとしているのか。あるいは海神がいて、海の生き物たちを遠くへ運ぶために見えない糸で操って、波として送り届けているのか?いや、逆に砂浜のどこかに巨大な魔法陣があって、海の恵みを手に入れるために波を引き寄せているのかもしれない。
そんな想像の果てに、ひとつの真理に気づく。
『この星そのものが生きているのか。』
この壮大な波の営みは、この星が生み出す鼓動そのものだ。
波は、星そのものが生み出した現象だ。海には絶えず膨大な水が静かに満ちている。その一部が、力を蓄えて岸を目指し、航海を始めるようだ。砂浜に到達してエネルギーを発散すると、また静かな水へと戻っていく。
それに比べて、自分をちっぽけな存在に感じてしまう。同時に、星と一体となったような、不思議な感覚も湧いてくる。
波が繰り返し砂浜に打ち寄せるリズムを聞いていると、自然と自分の呼吸に意識が向いた。その瞬間、胸の内にひとつの確信が広がる。自分の中にも同じような律動があったことに。
『人の波は、呼吸だ。』
人間としての自分自身もまた、この星の一部であることに気づく。ある時母親の胎内で意識が芽生え、体を構成するための栄養を溜め込む。一年を待たずに母親から離れて、絶えず食物でエネルギーや細胞を増やすために毎日食物を取り込む。その間はずっと呼吸をして酸素を取り込み、命を巡らせる。そうして百年ほど現世を謳歌して心臓の鼓動が止まると、呼吸の律動も消える。生命体としての機能を失うと、また星へと戻るのだ。
この星から生まれ、ひととき輝きを放つ『生命』としての自分。そして、再び星の一部へと還る――。
「呼吸は波だ。俺の中にも、同じリズムがある。」
人間の命のリズムは、星の律動の一部――ユウドウはその真実を肌で感じた。
息を吸い込み、吐き出す。自然に溶け込むように歩を進めながら、自分が生命という大きな循環の一端であることを思い知る。
『俺も、ひとつの小さな海なのか。』
そんな実感が、心を静かに満たしていった。
波があるように、俺にも命の律動がある。歩きながら、息を吸って吐いてのリズムを感じて、身を任せる。段々と、体全体が海そのものである実感が湧いてくる。自分の呼吸が波を刻み、命を保っている。
気づけば、外界の音が遠のき、内なる感覚だけが鮮明になっていた。
過去の記憶がふと脳裏をよぎる。修行で訪れた池の光景。
ユウドウは大きな池に全身が沈んでいる。目の前には、透明なはずの水中に、赤と緑の『筋』が見える。
池は2本の川から水を供給されていて、それぞれ上流から赤と緑のインクが垂らされていたのだ。川からの水流は、池の溜水にぶつかると抵抗を受け、蛇行してユウドウの視界に入ってくる。『自分たちは川からの新鮮な水だ』という主張は、インクによって色づけられる。
それは、2本の川から流れ込む水が作り出す独自の律動だった。
『そうか。すべては流れているんだ。』
景色は砂浜の地上に戻る。思い出の景色に引き摺られて、どこか息苦しく感じていた呼吸を落ち着かせる。
呼吸は、波。波は、星の鼓動。そのすべてがつながっていく。
自然は無償に力を与えてくれる存在。呼吸もまた、この大いなる星の律動のひとつだ。息を吸い、吐く。
《気流士》として特別な力を得るには、星が生み出すエネルギーの流れを感じ取り、調和することが必要と言われる。
師匠の言葉を思い出す。『自然との調和をできない《気流士》は、大成しない』――それはこういう意味だったのか。自分の努力ももちろんあるが、その基盤には常に自然から与えられたエネルギーがあるのだ。
歩きながらも、心はどこまでも静かで穏やかだった。ユウドウの心は、静寂の中で満ち足りていた。彼は歩みを進める。その先に隣駅へと続く大橋が見えた。
橋の中央に足を踏み入れると、突如強い風が吹き抜けた。顔に当たる風の勢いはただの自然現象ではなく、あたかも意志を持つ生き物のようだった。
ユウドウは目を閉じ、深い呼吸をする。風の流れが体の中に溶け込み、意識を支配していく。
その瞬間――
目には見えないはずの空気の動きが、鮮明に輪郭を持った。
「これが、『風の気流』……」
風はただの技術で操れるものではない。その一部となり、星の鼓動と響き合うことで、初めてその力を受け入れることができる。
橋の終わりから続く街路樹に視線を向け、ユウドウは静かに手を伸ばした。風が彼の意志に応じるように、橋を抜ける新たな流れを生み出す。木々がざわめき、その音色が周囲を包み込んだ。ユウドウが手を振るたびに、ざわめきは音量を変え、枝葉の向きが変わる。
それはまるで風が自身の一部となったような感覚だった。空気と肉体の境界が曖昧になる。手の届かない空間に巨大な団扇があり、見えない手で仰いでいるように風を捉えて自在に《気流》を生み出す。彼は初めて、《気流士》としての自分を受け入れられた。風を操るということは、自然と共に在ること。調和と一体化――それが彼に課せられた使命なのだと、確信したのだった。
最後に、ユウドウは手帖を取り出し、短い言葉を書き留める。
『俺が波であり、海。そして星であり、風だ。』