小さな航海と大きな後悔
モデルの街:ベネチア
車窓に映るのは、手前から線路、波立つ海、灰色がかった空。
海と空の境界線が、徐々に色づく。
カラフルだが、落ち着いた色合いのモザイク画。
そのモザイク画は、列車の走る距離に比例して段々と大きくなってミニチュアとなる。
やがて海の中にそびえ立つ建物群が大きくなるにつれ、胸の高まりも増していく。
ユウドウが駅から出ると、目の前には故郷にある遊園地のような光景が広がっていた。というか、こっちが元ネタなんだけれども。
まずは船でしょ!と心は決まっていたので、いきなりメインのサンマルコ広場行きの停留所へ向かう。
唸るような機械音。抵抗するように声をあげる水しぶき。
顔の両側を忙しく抜けていく風。ヒンヤリとした手の中の鉄棒。
軽快に運河を渡る船の甲板に、1人立っていた。
風が当たってキモチイイ。というか、結構肌寒い。普段ならさっさと窓のある船内に入ってしまうのだが、そうさせないほど目の前の景色に心を掴まれていた。
白、黄色、オレンジ、ピンク、黄緑、クリーム色。
水色と空色に縁取られた目の前のスクリーンは、あわただしく色を右から左へ入れ替えていく。高さを揃えた下書きの四角模様に各々お気に入りの絵の具の色で塗りつぶした絵画みたいだ。建物の高さは統一されているのが、余計に横のスクロールを感じさせる。
よく見ると建物ごとに建築様式もバラバラで、それぞれに結構特徴がある。自慢の色の壁を全面に押し出すように、窓だけをアクセントにした家。白を基調として、アーチを支える何十本もの柱が立ち並び、模様で勝負している屋敷。
川沿いに並ぶ建物はどれをとっても美しく、小さな町ならそれ単体で目玉となるような芸術品だった。それらがいくつも連なっていることで、自らの個性を主張しつつも隣同士で調和し、巨大な景観としての魅力を生み出していた。
目の前の景色はほとんど建物で埋まっているのだが、時折、その隙間から水路が見える。その両端には、左右対称に、遠近法に沿って整列した建物が顔を出す。その壁の一つ一つに数百年間のドラマが染み付いているのだと思うと、興奮を覚える。
船の右側ばかりを眺めていたが、正面に現れたソレに一瞬で心を奪われる。
両岸の建物を繋ぐ、少し湾曲した巨大な白いソレ。
運河にかかる最大の橋、リアルト橋だ。
一本の巨大なアーチ状の底面に支えられているのをいいことに、側面の壁の模様は芸術を爆発させている。何十本もの柱を繋ぐ小さなアーチ達は、岸から川の中心にいくにつれ、傾斜に沿って高くなっていく。アーチの内側は黒を基調とした家の壁が嵌っている。中央の一際大きいアーチだけが、無限に広がる空を手中に収めている。
橋の向こうから、大きな黒い三日月が横向きになって流れてきた。船頭のオール1つで進む、伝統的なゴンドラだ。料金が高くて乗れなかったせめてもの記念に、目の前の乗客にはモデルになってもらうことにする。
さっきの白とは対照的に、焦げ茶色で空を分断するソレ。アカデミア橋だ。底面のアーチに沿って、小さな幾何学模様が川を渡る。その上にはアーチと平行線に並ぶ柵と、規則正しく垂直に埋め込まれた杭。1番上の手すりには、地元の人達が自らの上腕を橋に並べる。
停留所から降りて広場まで向かう途中、大きな鐘の音が聞こえてきた。
細い通りを抜けると、視界の左半分に白い壁が並んでいた。柱が何本も立ち並び、それが三層になって無数に並ぶ壁で覆い尽くされている。
右前には寺院が現れた。王道のヨーロッパ建築とは少し違う、ビザンツ様式のドーム型だ。隣にある塔の方が何倍も高いはずなのに、存在感はそれを軽く上回っていた。
ナポレオンが世界一美しい広場と言ったが、確かにそれは大げさではなかった。もともと川沿いの建物群が1番の目的だったが、それを遥かに凌ぐ感動があった。
しばらく圧倒されて、言葉も思考も止まっていた。
少し落ち着くと、この空間を作り出した当時の意図について考える。建設当時は、他国の観光客を楽しませる目的ではないはずだ。おそらく、キリスト教の素晴らしさや神聖さを、情景として表現する手段だろう。特に、識字率が十分でない中世以前の民衆にとっては、こうした宗教的建造物、彫刻、絵画の存在は、宗教の教えを理解し、拡める意味でも重要な役割を果たしていたのだと感じた。
もうかなり見学としては満足したので、ディナーに向けて計画を立てることにした。とりあえずお目当てのお店を確認しておこうと、地図を見ながら進む。
あれ、さっきこの道通った気がするぞ?
景色に見とれて歩いていると、いつの間にか逆方向まで歩いていた。慌ててルート変更するもその先は袋小路になっていた。そんなことを繰り返すうちにだんだんと足が棒になり、まだ距離のある店を目指す気持ちも萎えてきた。リアルト橋まできたが、川沿いのレストランの店員の声に誘惑される。
何とか振り切って、さかな市場まで行ってみる。だが、もう日が暮れた夕暮れ。カラになった、斜めになった茶色一色の棚だけが何列も整列していた。
ポキン
自分の中で何かが折れる音がした。とりあえず歩き出した時に最初に目に入ったお店にピザがあったので、もう諦めて入ることにした。
出迎えた店員が、まだ誰もいない奥の部屋に案内してくれた。ラッキーと思い少し元気になると、座った瞬間に陽気な異国語が部屋に入ってきた。どうやら地元の中高年の集まりらしい。孤独なリストランテの雰囲気は一瞬で消え去り、異国版の赤提灯が始まった。
メニューを渡されたが、異国語だ。大事な上陸後初ディナーなのに、もう調べる気力も残っていない。とりあえず海の街へ来たのだから、店員にシーフードのオススメを聞いてみた。
注文したピザが届く。大きさは宅配ピザのLサイズぐらいあるだろうか。これは多分完食は無理だろうなぁと思いながら食べ進める。あんのじょう、半分も行かないうちに、胃も心も満足してしまった。とりあえず硬いミミの部分は残して、もう少し食べ進めることにする。
それでも8枚のカケラのうち、6枚目を食べたところで力尽きてしまった。これ以上は苦行になることが目に見えていたので、カモミールティーでリセットして、ピザの残骸をテーブルの奥側に押し込める。
隣の地元民がなんだか楽しそうに話しているが、異国語のため何ひとつわからない。それでも他に何もする気が起きず、ただそれをBGMとして聴き続けていた。端から見ると少し口も開いて心配になるほどボーっとしているだろう。とりあえず少し消化が進んだのを感じて停留所の方だけ確認し、ようやく言い慣れてきたお会計の異国語を発する。
店の灯を抜け出すと、薄ら闇に包まれた世界が広がっていた。店の正面にあった家も、たしかにさっきは鮮やかなオレンジ色をしていたはずなのに、今はくすんだ灰色にしか見えない。
昼間とは逆方向の船に乗り込んで寝床への道を急ぐ。だが、やっぱり少し歩きたくなってしまい、駅より少し手前の停留所で降りる。地図で示された最短ルートを通って、ジグザグと駅へ向かうことにした。
昼間は雑踏ばかりだったのに、今は人影が珍しい。味気ない壁だけが続き、角を曲がるたびにドキドキしてしまう。久しぶりに話し声が聞こえるたびに、自分をカモにしようとしている強盗達の相談に聞こえてしょうがない。
突然、静かな夜空を割くように、大きな鐘の音が鳴り響いた。ビクッとしてしまったが、それに気づくほど近くには、誰もいない。
心臓の鼓動がひと足先に鳴り止むと、昼間にも鐘が鳴っていたのを思い出す。ちょうど広場にいた時に鳴ったので、空間への感動に拍車をかけたことも思い出した。
昼間と鐘の響きは全く同じはずなのに、今はなんだか底知れない不協和音に感じる。人ならざる者たちが集合するための合図にも、強力な悪魔が誕生した祝砲にも聞こえた。




