一滴の粒 〜L'Arc en Ciel〜
空には、昨日の陰鬱な雲は一つもない。スカイブルーの中に、七色の光が筋をなして並ぶ。
広場には露店の鮮やかな布が風に揺れ、香ばしいパンの香りが漂っている。行き交う人々が笑顔で会話を交わす中、少し間の抜けた音が聞こえてくる。
「そう、大きく息を吸って。」
ふっ〜
マウスピースに向かって全力で吹いた息は、金色の筒を震わせることなく、広々とした管を抜けていった。大きく湾曲したベルが、むなしく空気を吐き出すだけで、音は一向に生まれない。
「音出すだけで、こんなに難しいんだね。」
「『テナー』はグルミンには合わないかもな。ちょっと貸して」
言われるまま、サックスを元の持ち主であるカンテラに慎重に渡す。
《メタモルフォーゼ 〜ソプラノ〜》
カンテラの言葉とともに、テナーサックスがまばゆい白い光に包まれた。渦を巻くように大きな曲線を描いていたベルが光の中で徐々に渦が解消されて、直線的なシルエットへと収束していく。かつての太く重厚な管は、ほっそりとスリムになり、手に持つ感触さえ軽くなった。気付けば目の前に現れたのは、下向きに真っ直ぐ伸びる、コンパクトなソプラノサックスに生まれ変わっていた。
「なんか形変わって小さくなったけど、どういうこと?魔法?」
「いいから、いいから。もう一回これで吹いてみなよ。」
「ちゃんと質問に答えてよ!この前の『空飛ぶ傘』の件もちゃんと説明聞いてないんだけど!」
「音が鳴ったら答えてあげるさ。」
「絶対鳴らしてやる!」
渡した時より少し雑な動作で、小ぶりになったサックスを受け取る。
悔しさも込めて吹き込んだ息は、細身の管をしっかりと震わせ、金属の筒がついに音を奏で始める。はっきりとした音域で空気を震わせながら放たれて、明るい音色が空気に溶けて広場に響き渡った。
「音鳴ったじゃん、グルミン!」
「うん!」
褒めてくれたカンテラに、つい満面の笑みで返してしまった。だが恥ずかしくなって、誤魔化すために唇を尖らせる。
「言いそびれてたけど、勝手に変なあだ名で呼ばないでよ!僕にはグルーミィ・ブライト・アズールスカイって名前があるんだから。」
「いいじゃん、呼びやすいし。次は『レ』を聴かせてよ、グルミン!」
「はぁ。もういいよ、それで。」
たぶん抗議しても呼び方が変わらないだろうと諦め、ため息をついて反論の言葉を体の外に吐き出す。指定された音階を一生懸命に鳴らすことで、反抗心を空気に霧散させる。
ただ、自分がサックスを鳴らすたびに喜んでくれるカンテラの声は、嫌いじゃなかった。
「よし!みんなの前で演奏してみよっか。」
「いや、ようやく音を出せただけなんだけど。」
「大丈夫、何とかなるって!お客さんに聴いてもらうのが、1番上達が早いんだぜ!」
「ちょっと、教え方が雑すぎるよ!」
今回はさすがに抗議を続けたが、カンテラは大衆に向かって大声で口上を始めてしまっていた。
「さぁさぁ皆さん!寄ってらっしゃい。見てらっしゃい。今からこのグルミン少年がステキな演奏を始めてくれるぜ。」
カンテラの陽気な声に誘われて、広場を歩いていた買い物客の足が止まる。
視線が刺さるように感じ、グルーミィの心臓は喉まで跳ね上がる。指先は冷え切り、楽器を握る手が震えた。『ムリだ』という声が頭の中で何度も繰り返し鳴り響くだけで、とてもじゃないが楽器を鳴らす勇気は沸いてこなかった。
「ほら、お客さんが待ってるぜ。」
「ムリだよ。できるわけない。」
「先生を信じてみろって!人生って楽しむと、光り出すんだぜ?」
生徒の曇った気持ちなどお構いなしに、一点の曇りもない快晴の笑みを返されて観念する。
「この能天気教師!もう知らないからね!」
一言悪態だけついたが、もう不安な気持ちは不思議と消えていた。代わりに、サックスをまた吹いてみたいという情動が溢れ出ており、唇をマウスピースに触れさせて流し込む。
真上から降り注ぐ太陽の光を石畳が鈍い色で反射して、午後の気温上昇を静かに告げている。
音が初めて響いた瞬間、太陽の反射ではなくてサックス自身から、黄金色の輝きが放たれる。光は観客の頬を淡く照らし、まるで夕陽が広場に落ちたかのようだった。人々の視線が、その光景に吸い寄せられるように集まる。
広場に解き放たれたサックスの音のほうは、空気が振動して頬をくすぐるような感覚が広がる。それはどこか未熟で、けれどまっすぐな音色だった。
『練習の時とこんなに違うんだ。』
グルーミィは自分が生み出しただろう、サックスのベルから溢れでる音の泡に心奪われており、観衆の視線など忘れて夢中になって泡を生み出す。
辺りに、『ド』の音階だけが、長く長く鳴り響く。
『なんだ、演奏が始まるわけじゃないのか』と客の心に浮かぶ前に、石畳をリズミカルに叩く音が鳴り響く。その『打音』の上では、カンテラが華麗に舞っていた。その動きはまるで即興劇のように物語性を帯びており、片足を高く蹴り上げるたびに広場の子供たちから歓声が上がる。
グルーミィは懸命に吹きながら、カンテラのおかげで沸いているのだろうと察していた。だが、そんなことはどうでも良かった。今はただ、このサックスの音をもっと響かせたいという心臓の鼓動が、脳内に浮かぶ雑音を飲み込んでいた。
グルーミィが一つずつ音階を上げて音を出すたびに、合わせるようにカンテラの靴音が優しくリズムを刻み始め、音楽が一つの波となって人々の胸を打つ。無機質な金属が震えるだけの音に、石に生命が吹き込まれた鼓動が重なり合い、ただの『単音』が『メロディ』に昇華される。
1オクターブ上の『ド』が鳴り響く時、リズム担当だった靴は真上を向く。ポーズを決めると、靴は再び拍を生み出すことはなく空中で踊り出す。ブレイクダンスに変わって動きは激しさが増す一方で、もう靴底と石畳の軽快なセッションは生まれなかった。地面に接する背中や両手が触れても、鈍い音だけしか生まれない。グルーミィは息を吐ききるとマウスピースから唇を離し、相方の動きに見惚れてしまっていた。
サックスの音も途切れた中で、『無音』で踊りだけが続く。耳をすませばカンテラの衣擦れの音が聞こえるのだが、観客は視界で感じる『音楽』に夢中で、そんなことは気付いてすらいなかった。
観客の中から、誰かが手拍子を始めた。それが少しずつ、さざなみのように広がっていく。広場全体が、たった1人のパフォーマーのためにリズムを刻んでいた。
カンテラが舞い終わり、手拍子の音を束ねるように右人差し指をくるりと回して高く天に突き上げる。
広場には完全な静寂が訪れる。
そして次の瞬間、拍手が沸き起こった。観客の中から一人の少女が手を振りながら『もう一回聴きたい!』と声を上げると、グルーミィの頬が赤く染まった。」
拍手が鳴り響く中、隣の主催者に抗議する。
「かなり恥ずかしかったんだけど?」
「でも楽しかったでしょ?」
「それは、まぁ。」
「なら今は、この拍手を体一杯に浴びときなよ。」
その言葉に素直に従ったわけではないが、惜しみなく手を叩いてくれる観客に応えるため、音が止むまで視線は石畳を見つめるままにした。拍手の音はたしかに耳で聞こえていた。だがそれよりも何倍も大きな音で、さっき鳴らしたサックスの『ド』が、彼の頭の中だけで鳴り響いていた。
観客が散った頃、グルーミィはサックスを返した。
「オレも始めた頃は音出せるのが、ただただ楽しくってさ。夜中まで鳴らして警官に怒られたもんだよ。」
「うわぁ、目に浮かぶなぁ。」
この人なら、怒られた後も吹き続けるんだろうなとも思う。だからこそ、研磨されたその演奏に心をかき乱され、挙げ句の果てにはこうしてサックスを習っているのだが。
「そういえばカンテラって何者?音を鳴らせたんだから教えてよ!」
「オレは《ムジカ》さ。この『キャリベル』を吹くと、不思議現象を起こせるんだ。」
出会った日に、自分のサックスを『キャリベル』と呼んでいたことを思い出す。カンテラは、愛しそうに金属の艶やかな肌を撫でながら続ける。
「キャリベル、オマエとの付き合いもけっこう長くなってきたなぁ。」
物言わず、今は太陽光で優しく金色を反射するだけで応えるキャリベル。
「やっぱり魔法使いってこと?」
「まぁ魔法っちゃ魔法かな。正しくは《スピリット》っていうエネルギーを使ってるんだ。グルミンにも《スピリット》ってあるんだぜ?」
「その《スピリット》ってよくわかんないけど、ボクにも同じことができるってこと?」
「ああ、何か一つ楽器を極めればね。」
「じゃあさ、昨日の空飛ぶ傘はどういうこと?ボクが急に飛び降りたんだし、サックス吹いてる余裕なんて無かったでしょ?」
「アレは《Singin' in the Rain》って曲があるんだ。その曲を事前にマスターして演奏しておくと、タイトルを詠唱するだけで雨の日限定で使える空飛ぶ傘を出せるんだ。」
「めちゃくちゃ便利だね!でもそんな急によく出せたね」
「廃墟のビルでグルミン見かけた時、寂しそうな音が聞こえたからさ。」
「、、、ありがとう。お礼だけは言っとくよ。」
「成長したじゃないか。」
「からかわないでよ!あと、まだ聞きたいことあるんだから。」
「何なりと、どうぞ。」
「サックスの形変えたのも魔法なの?」
「それはこの『キャリベル』が特別だからさ。特殊な金属でできてるんだけど、作ってもらった時にそれぞれのサックスの形を記憶させてもらってるんだ。」
「へーそんな金属があるんだね。カンテラが色々魔法使えるのはわかったよ。でも、なんで一般人のボクが吹いた時も光ったの?」
「『人生って楽しむと、光り出す』って言っただろ?」
カンテラはイタズラっぽく笑い、演奏前と同じセリフを吐く。
「精神論的な意味だと思ってたから、まさか物理的に光るとは思わなかったよ。」
「このキャリベルにはオレの《魔法》が染み付いてるから、それくらいわけないさ。ただ、演奏者の感情が光り輝いてないと、音も光も出ないけどね。」
「ふーん。」
グルーミィは詳しい原理はまだ理解できていないが、『光り輝く』と言われて笑みがこぼれる。
表情を誤魔化すために、また文句を放つ。
「っていうか、ボクが困ってるのを見て、楽しんでたってことでしょ?」
「まぁね。ちゃんと演奏できるって信じてたからさ。」
『信じてたからさ』と言うカンテラの顔には、冗談ではない真剣な眼差しが宿っていた。グルーミィはまた反論しようとしたが、その言葉が胸の中で溶けていく。代わりに、照れ隠しのようにそっぽを向き、サックスをそっと抱きしめた。