甘えだろ? っていう言葉がキライだ
本当は複雑怪奇なのに、すぐさま単純二極化させる。
世には本当にそういった事象が溢れていて、嫌になるなぁ。
「甘えだろ? なんてリア充と同じく滅びればいい(暗黒微笑)」
御免なさい、言い過ぎましたリア充は世界にとても大事なので滅びたら駄目です。
おおよそ世間の色々なものはリア充な人の開発したもので出来てるっぽいので、特にインターネットとかパソコンとか服とか家とか美味しいご飯がなくなったら、私の生命線が脅かされてしまう。
「甘える」これが乳幼児期だけに限らず、集団で生活する人間にも終生大事なのはどなたも知っていることかと思います。
先天的にも後天的にも、基礎値の違いや能力低下はありえると私は考えています。
先天的にはさまざまな障害を持って生まれてくる方々がいて、重症軽症等様々です。
後天的については、髄膜炎や脳梗塞といった病気による喪失もある話ですし、実際言語攻撃を受けた人がみるみるうちに元の能力を失っていく様を目の当たりにしたので、精神的なものだってある事だと言いたい。
それを周りに補ってもらおうとする事自体を「甘え」だと切り捨てる風潮が好きじゃ無いです。
誰だってご飯なり技術なり温もりなり、誰かが成した事に「甘え」て生活しています。
同じだけ誰だってご飯なり技術なり温もりなり、何かを成して、誰かを「甘え」させています。
違うでしょうか。
「甘えだろ」は、自分が切り捨てられていい、もしくは既に切り捨てられている人だけが言っていい。
逆を言えばそうなってない状態、自分だって誰かに「甘え」ている状態で軽々しく言い放って欲しくない、そう思っています。
例えば先天的ではないか、と言われるものに発達障害があります。
その容態は様々ですが、機能として無い部分を、他人に振り分けるのはそれは「甘え」でしょうか?
例えば後天的である、脳梗塞において体の一部の機能制限が引き起こされた人が、補うのに人に頼むのは「甘え」でしょうか?
例えば後天的に精神的にまいってしまって、落ちた能力を人に手助けしてもらうのは「甘え」でしょうか?
例えば時代に取り零された、自身の持つ特性や「甘えだと切り捨てられてきた何らかの障害」に振り回されている人が自身の経験から、自分が関わって良い事にならない物事から遠ざかろうとするのは「甘え」でしょうか?
もうこれ以上を頑張れば自分が壊れてしまうという自覚の元、それでも壊れるまでやりきって壊れたその人に「甘えずに頑張ったね」と、『「甘えだろ?」と言う人』は声をかけ何くれと元の状態に戻す行動と覚悟と責任を負ってくれるのでしょうか?
残念ながら、「甘えじゃね?」と発言する人程そんなことはしてくれない。
する気がある人なら、「あなたこういったことができてたから、こうならできるんじゃない?」と言うと思います。
これだって、「甘えじゃね?」と言葉の中身は同じなのです。
要は「出来る事があるんじゃない?」ということですね。
相手をなじることは簡単な事です。
言いっぱなしで、しかも相手の方を下に見ているので自分の立場を上げられた感じもして気分が良いものです。
確かに、「甘やかしてもらおう」と思っている人はいます。
自覚して、自分が出来ることさえ誰かにおっかぶせる人が存在しています。
けれど、あなたが「甘え」だと断言しようとしている、その目の前の人は本当に「出来る事さえせず甘やかしてもらおう」と思って行動していますか?
何か根本的な原因が隠れてはいませんか?
観察することで、時に見えてくるものもあります。
少なくとも私はそう考えているので、まずは観察をしてから判断がしたいと、そう思っています。
それからでも、「それ甘えてるっしょ」と言うのは遅くない。
言語の理解の問題なら、平易にすると伝わるかもしれない。
短期記憶領域が少なくて、発話では覚えきらないなら、イラストや文章などのマニュアルが必要なのかもしれない。
想像力が乏しいならば、実践を見せて実地して、体感でなら覚えられるのかもしれない。
観察してみると、あの場所ではやっているのに、こっちではやろうとしない。
やり方や教え方は全く一緒、それならもしかしてこっちはサボっているのかもしれない。
しかもやろうとしないのを棚に上げて、他人を詰っている。
流石に私も「それ甘えだろ?」です。
あ。
私「甘えだろ?」がキライな訳じゃなかった。