第2話
ユトリロはいつまで経ってもクローゼットから出てこなかった。
カナレットをドレッサーの前に座らせ、ドレスを取ってきますと言ってクローゼットに消え、それきりだ。
だからカナレットは自分でベールを剥ぎ、イヤリングを外し、ネックレスを取り、ウェディンググローブを外した。まとめ上げていた髪もばさばさと解いて、さて、もうあとは誰かに助けてもらわないと無理だぞ、というところまできて、まだユトリロが出てこないのでとうとう呼びに行くことにする。
「ユトリロさん?」
そろりと覗くと、ユトリロが床に伸びていた。
「ちょ! ユトリロさん! 大丈夫ですか? 具合でも──」
医者でもあると言っていた人の名前はなんだったか。
バルサミコでなくて、ババロアでなくて、バナナでもなくて、それは食べ物だから、ああ、もうオムレットに考えが引っ張られてる! えーと、だから、バジル! じゃなくて、そうバジール!
「バジールさんを呼びますか──」
言いかけて、ユトリロの小脇にある銀色のスキットルを見付ける。もしやと思って栓を開けてみたら、やはりアルコールの匂いがした。しかも空だ。落ち着いて体をよく観察してみると胸は上下しているし、呼吸も穏やかだ。
「酔って寝てるだけかい!」
心配して損した。
驚いたぶん、ユトリロの傍でへなへなと座り込んでしまう。
(このまま放って置こうかしら)
けれど起きてもらわなくては、さすがに着替えられない。やれやれ、と腰を浮かせて揺さぶることにした。
「ユトリロさん、ユトリロさん。起きていただけませんか。脱がせてくだされば、あとはひとりで着られるものを適当に探しますので」
それでも起きないユトリロに、これ以上の期待は無駄のようだった。
(仕方がない。他の方法で脱ごう。こんな服、重くて嵩張って、とてもじゃないけれど着ていられない)
そして目に飛び込んできたのは、ユトリロの袖口に隠された鋭利なナイフだった。袖口から引き抜くと、なかなかな刃体の長さがある。きらりと刃がきらめいて、柄には蛇が水車に絡みついた紋章がある。
「ふむ」
政府に殺された証であるウェディングドレスなど、見たくもない。切り裂いてしまっても構わないだろう。雑巾にでもしてしまえ。
カナレットはナイフを拝借して、ドレッサーの前に立った。
脇のほうから裂こうとすると、腕に力が入らなくてうまくいかない。危なっかしいが、胸のほうからから刃を入れていくしかない。
「よいしょ、と」
ちょうど胸の谷間に刃を突き立てたとき──
「失礼致します。診察の……」
「あ、バルサミコさ、じゃなくてバジールさん。ちょうどいいところに──」
目が合ったと思ったのはたったの一瞬だった。瞬きをする前にはドア口に立っていたのに、瞬きをして瞼を上げたときには、もう目前に迫っていた。
その勢いは突風に匹敵した。
はっと息を呑んだ直後、カナレットの視界は引っくり返って、押し倒されていた。
両腕を床に縫い付けられて、馬乗りにされている。
(?????)
「あ、あの──」
「なんてことを……。早まってはいけません! リフ神様は、悲観して死にたくなるような人ではございません!」
「……え? 死に……?」
「なになに、なんの騒ぎ?」
そこへ入ってくるダイク。
カナレットとバジールの姿、そしてカナレットに握られたままのナイフを見て、色々と誤解したらしかった。目をひん剥いて、はっ、と口を手で押さえている。かと思いきや、叫び出した。
「リフ神様! リフ神様!! 奥様が自殺を図ったぁー! 早くぅー!」
「は、じ、自殺?」
そしてどこからともなく現れたリフはカナレットの傍に膝を付いてナイフを優しく奪う。頰を包みながら、苦痛に歪めた表情で顔を覗き込んできた。
「なんということだ、カナレット……! 不安にさせてごめんよ! ああ、僕の思慮が浅いばかりに……!」
「抑えなくちゃ、抑えなくちゃ! 奥様、死んじゃだめ!」
全員が大集合して、足までダイクに抑え込まれてしまう。もう我慢ならない。
「ち、違います! ユトリロさんが寝てしまって、ひとりでウェディングドレスを脱げなかったものですから、いっそ切り裂いてしまおうと思っての行動です! 自殺企図ではありません!」
「…………え?」
冷静さを取り戻したらしい3人が、目を見開いて瞬きをした。ややあって、ようやくカナレットの上からどくと、カナレットはここぞとばかりにクローゼットを指差した。
「ほ、本当です! クローゼットにユトリロさんがいらっしゃいますから、確認してみてください! ナイフもユトリロさんが持っていたものですし!」
初めに動いたのはバジールだった。ゆらりとした動きのわりに眼光は鋭く、リフの手からナイフを抜き取っていったのもわからないほどスマートな流れだった。
クローゼットを覗き込んだバジールが、青筋を浮かべて大きく息を吸ったのが見える。
「ユトリロ!! 貴様、今日こそぶち殺してやる!」
「わーーー! バジール! 落ち着いてぇーー!」
どたばたと暴れる音がクローゼットから漏れ聞こえてくる。カナレットが呆然とその様子を見ていると、リフが苦笑しながら頰を指で掻いていた。
「ごめんよ。僕の従者達はなかなか個性的でね。でも、とてもいい子達だから、嫌わないであげて」
「は、はい。それは、大丈夫ですが……。と、止めに入らなくても……?」
「んー。ちょっと放っておこうかな」
(えぇ……)
「放せダイク! この飲んだくれを殺さないと気が済まない!」
「駄目だよ、バジール! ユトリロも頑張ってるんだから! 1日のお酒の量が前の3分の1まで減ったんだよ?」
「んぁ……? おはようー……なにしてんろ?」
「この間抜けヅラぁ!!」
「ぎゃあーーー!! バジールってばぁ! リフ神様、助けてぇー!」
「……本当に止めに入らなくても?」
「あと少し放っておこうかな」
(えぇ……)
◇◆◇◆◇◆
「で、ようやく落ち着いたね」
カナレットは応接室にいた。ソファセットに腰掛けて向かい合うリフの背後には、傷だらけで髪も服もボロボロになった3人が並んでいる。しかもユトリロとバジールに至っては不機嫌で仏頂面だ。
(3人が気になりすぎて、話がまったく頭に入ってこない……)
「勘違いしてごめんね。てっきり、僕との結婚が嫌で死のうとしているのかと思ってしまって」
「私こそ紛らわしい行動を取ってしまい、大変失礼をいたしました」
「いやいや、いいんだよ。元はといえばユトリロが寝てしまったのが悪いのだから。ね、ユトリロ?」
「え、あ、はい。……ひっく!」
「おや。他に言うべき言葉があるんじゃないかな?」
──ねえ、ユトリロ?
言い終えるが早いか、リフは首だけを巡らせて後ろに立つユトリロに目を向けた。だからカナレットにはリフがどんな表情をしているのかはわからなかったけれど、律儀で礼儀を重んじそうなバジールが天井へと瞳を反らして硬直しているのを見ると、恐ろしいほどの睥睨だったのだろうなとは想像がつく。
がくぶると体を震わせたユトリロは、ぶんっと音が鳴るほどに体をくの字に折り曲げて謝罪をした。
「申し訳ありませんでした、奥様……! 多数の立候補者を勝ち抜いてきた奥様ゆえ、自殺のようなことをするとは思いもよらず……!」
「いえ、私は自殺ではなくてですね」
「ユトリロ」
「あ、と、とにかく! 俺の不徳の致すところでございました!」
バジールに諌められて、謝ってくれたユトリロだが、それよりも聞き捨てならない部分があった。
「気になさらないでください。それよりも、立候補とは?」
「リフ神様の花嫁の座を狙う数多の女性陣と争ったのでございましょう?」
「え?」
「え?」
「ん?」
「ん?」
その様子を見て、ダイクが訊ねてきた。
「あのー。奥様はどうして奥様に選ばれたのです?」
「私が孤児で身寄りがなく、婚約しておらず、かつ、する予定もない16歳だからですが」
「立候補は?」
「いえ、政府からの報せで強制でした。というより世論でしょうか」
「他に立候補者は?」
「いえ、誰も」
「奥様のご意見は?」
「ご意見?」
「嫁ぎたいとか、嫁ぎたくないとか、言わなかったのですか?」
「逆らえるはずがありません。心情など聴取もされませんでした」
ダイクが顔を強張らせて隣を見た。隣のユトリロは視線を受け取ってそのまま左に流してバジールを見て、バジールは固く目を閉じてなにも言わない。
カナレットの前に座るリフは、長い足を組み直して、ソファの手摺を利用して口元を隠すように手を握り組んでしまった。
目は笑っている。
笑っているが、瞳は笑っていなかった。
細長い虹彩が怒りを滲ませて、さらに細い紡錘形に変形する。
「ほう? つまり、無理矢理、ということかな」
そこでカナレットは失言に気付いた。これでは人間の世界が花嫁を寄越せというのが迷惑千万であると考えていると、正面から言っているようなものだ。
「い、いえ! 皆、私も含めて知識が浅く、神に嫁ぐとは即刻、死ぬものと思っていたようなのです! ですので躊躇があっただけで、こんなに素敵な場所であると知っていたら、乙女達はきっとこぞって立候補を……!」
「そうではありません、奥様。神の花嫁探しが人間の世界から遠ざかって久しいのは、よく存じております。昔は神の花嫁は光栄なものだと、争って決めたものですが、今では知識や認識も薄れ、そのようになってしまっているのは想像の範疇でございます」
バジールがまだ瞑目したまま説明をしてくれた。バジールはちらりと瞼の隙間から、主の様子を窺い見る。そのこめかみに汗が一筋垂れていた。
「ただ──
リフ神様は理不尽がお嫌いなのでございます。
奥様は強引に滝に落とされたのと同じ。リフ神様はその選出方法に憤りを感じてらっしゃるのです」
カナレットはリフを見やった。
リフは相変わらず目の周りの筋肉だけを動かして笑顔を保っていたが、冷酷な威圧は減るどころか増幅さえしていた。
「カナレット」
「は、はい」
「君の故郷でもあるから、ちゃんと意見を聞くね」
「は、はい」
「その国まるごと、滅ぼしてもいいんだよ?」
「はい?」
リフの妖しい目は、どう見ても本気だった。神はそんなことも簡単にできるのだろうかとバジールに目を向けると、バジールの汗がさらに増えていた。
(あ、これ本当だわ)
「それは、していただかなくて大丈夫です。確かに不本意な決定ではありましたが、なんだか、こちらに来たほうが楽しそうです。だから、むしろいい選択でした」
言うと、リフは組んでいた手を解いてローテーブルの上に用意された紅茶を口にした。
「そう? なら、いいんだけどね」
その笑顔は先のそれよりもだいぶ柔らかくなっていた。背後の3人がどっと息を吐いたのを、カナレットは見逃さなかった。
「でも、そうか……じゃあ、僕との結婚は本意ではないんだね」
正直に言ってしまったら、あまりにも失礼だ。返事に窮しつつ、慎重に言葉を選ぶ。
「……し、しかし人間の世界でも婚約は家柄などで──」
「大丈夫、安心して。ちゃんと惚れさせるからね」
「……え?」
(気にするところ、そこ?)
◇◆◇◆◇◆
ダイクが夕食の支度をしている間、カナレットはユトリロと湯浴みをすることにしてもらった。バジールはまだユトリロの勤務態度が不安だったが、それよりも問題は目の前の主だ。
書斎のデスクに大量の紙の山を作り上げ、素早くチェックしているのはいつも通りだが、その無言の背中が恐ろしい。カナレットが国の滅亡を望まなかったので首の皮一枚繋がったが、主の怒りは収まっていないはずだった。
彼は理不尽を嫌う。
だからこそ、バジールはここにいられるのだ。
「カナレットの故郷は、なんと言ったかな」
ほら、きた。
バジールは作業の手を緩めずに問うてくる主に告げた。
「ガカ国でございます」
「ふーん、ああ、そう。そうだったね」
ぺら、ぺら、と紙を捲っているだけの音が恐怖を増幅させる。バジールは頭皮の毛穴のひとつひとつまで鳥肌が立って身震いした。
主が、ゆっくりと顔を上げ、首だけを巡らせて、バジールを見やった。
その目──。
三日月のように笑っておきながら、まるで笑っていない紡錘形の目。
「カナレットは、国は滅ぼさないでとは言っていたけれど、誰も殺さないでとは、言っていなかったよね?」
バジールは目を閉じた。主の目を受け止め続けていると、失神してしまいそうだった。
「その通りでございます」
答えると、主は頷いて、ひとつの山を片付けるとおもむろに立ち上がった。それが合図だ。バジールはさっと、脹脛まである長い黒コートを準備し、袖を通させてやった。
「10分で戻るよ」
「畏まりました」
足を踏み出しかけ、思い出したように立ち止まる。そして振り向いてきて、告げた。
「ああ、カナレットにはくれぐれも秘密だよ。彼女には、優しい夫でいないとね」
「畏まりました」
恭しく礼をして、なんとかその場を乗り切る。扉が閉まって、ようやく張り詰めた緊張を解いた。
(短気なんですよねぇ、意外と)
バジールは山にペーパーウェイトを置いて、その場を後にした。