僕の完全犯罪ミステリー
カタカタ、カタカタ。
薄暗い店内で備え付けられた安っぽいヘッドホンを外した信太郎は、空になったグラスを手に自身のブースを出た。ドリンクバーへの行き帰りには、深夜にも関わらずマウスかゲームパットかの音がそこかしこから鳴っている。
都心の駅前にあるネットカフェは信太郎のお気に入りだ。原稿に詰まった時には必ずここを訪れる。ミステリー作家としてようやく軌道に乗り始めた信太郎にとって、決して安くはないも筆が進むのだから仕方ない。
取ってきた甘いリンゴジュースが脳へ直接染み渡る。
(ふぅ。やっと三分の一。ほんと前置きニガテなんだよな)
信太郎は自身の執筆にムラがある事は自覚していた。アイデアを出す段階からどうしてもトリックにばかり目がいって、執筆も事件が起これば早いもののそれまでに中々な苦労を感じてしまう。
(んーでも荒いかなぁ。このまんまだと100パー怒られるけど……後でいいか)
早く、トリックを。書き切ってしまえば人物にも目を向けられる。
ゆったりと信太郎の背中を包むチェアから身を起こす。ずっと座り続けたチェアはまるで自分の形にくぼんでしまっているのかと思うほど、来店時に比べ座り心地が良くなっていたが、信太郎に一抹の睡魔も与えはしなかった。
(いやぁこれはホントに完全犯罪。完璧。やべぇえ)
トリック自体は会心の出来だ。あとはどう描くか。大好きなパートに入った事で信太郎の頭脳はオーバーワークも忘却する。
カタカタ、カタカタ。
音楽を垂れ流すヘッドホンは放り出されている。
カタカタ、カタカタ、カタカタ。
間近でスマートフォンが着信を受けているのも気が付かない。
カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ。
いつの間にか白み始めた空にも動き始めた客の物音にも削がれない。
カタカタ、カタカタ、カタカタ。
昼間近くに横を通ったいい香りにお腹だけが反応する。
カタカタ、カタカタ。
喉に渇きを覚えてグラスを手に取った。
(ちっ。……取りに行くか)
空っぽになっていたグラスに信太郎の気勢がいくらか変化する。荒々しくグラスを手を伸ばした時、また着信を受けていたスマートフォンの画面が通常へと戻り、現時刻が目に飛び込んできた。
(17時? あの店員、また声かけずに延長しやがったな。何度言ったら覚えんだよ)
どうせ延長はしたのだが、集中すると周りが何も見えなくなる信太郎だ。時間を把握する意味も兼ねて、わざと自動延長のない3時間パックにしていたのにこれでは意味がない。
舌打ちを繰り返しながらドリンクバーへ向かうと先約がいた。イチャイチャと若いカップルがそれは楽しそうにドリンクを選んでいるが、待たされる信太郎にとっては全く面白くもない。
「お、おい。もう行こう、ほら早く」
「ちょっとナニ? あ……」
睨み付けるようにして立っていた信太郎に気づいたカップルがさっと場を空け去っていく。フンと鼻を鳴らした信太郎の地獄耳は、通路を曲がった先からある呟きを拾った。
「ねぇあの人怖い。ここ出よう?」
男は頷いたのだろうか。二つの足音がエントランスへ伸びていく。
(あ? 人見てあの態度あり得ねぇだろ。つーか、俺は執筆し続けてたんだ。ただ疲れてるだけだっつの)
苛立ちを募らせつつドリンクバーの前に立つと、小脇に置いてあった光沢のあるくずかごに信太郎の顔が映った。
(……うん。これはやばいな。とりあえず髭は剃らないと)
見えたそれは、滾った信太郎を鎮火させるに十分なものだ。髪はボサボサ、目の周りをぐるりと囲むクマ、頬は疲れ果てたかゲッソリとして髭が無造作に生えている。ラフすぎる格好も相まってホームレスに見間違えられてたとしても、相手を咎める方が悪いと言える。
気に入りのリンゴジュースを持ち足早に席へと戻ってきた信太郎。とりあえずチェアに腰を下ろして髭をなぞっていると、仕切り扉が控えめにノックされた。
「あのぅ、お客様。その、延長でよろしかったでしょうか?」
戸を開けた先で、気の弱そうな店員が頭だけ起こしたお辞儀の格好で窺ってくる。
「あーもういいよ。延長延長で。あ、髭剃り一つ」
今更かと呆れたが、こんな及び腰の店員を叱責する気力は残ってない。雑に手を振って取手に手を掛けたが、店員はまだ何か言いたそうに留まっていた。
「なんだよ」
「え~っと、お客様。そのぅ、お客様はもう1週間も連続でご利用なさってますけど、そ、そのぅ」
「あーはいはい。金はあるって。なんなら一度清算してよ。今原稿がいい感じに進んでるからもうしばらく使いたいんだよね」
信太郎のおざなりな返しに、店員はいくらか肩の力が抜けたらしく、言い訳めいた調子で舌を振るってきた。
「あ、あ~そうなんですか、はは。そのぅお客様いつもは長くても半日とかだったじゃないですか。だからぁそのぉ店長が聞いて来いって。あはは。あ~でもぉ、お客様ず~っと起きてますよねぇ。あははもしかして一週間一睡もしてなかったりして。前に小説家って言ってましたけどぉ、ちょっとは寝た方がいいんじゃないですかぁ? あはは知らないけど」
途中から好き勝手に言うだけ言った店員は、スッキリしたのかしないのか妙なリズムを取りつつ戻っていった。
ここ1週間。改めて考えれば、信太郎は夢中で執筆に励んでいた。これではこんな酷い顔になるのも店員にいつも以上にビビられるのも当然だ。少しは頭を休めなければ文の質も落ちていくのが目に見える。
(いつも仕事出来ねぇ奴だと思ってたけど、今回はあいつの言う通りか。腹も減ったけど、まずは寝よう)
信太郎はチェアの背を倒し、早速に体を横たえた。目覚めた後の予定を組みながら瞳を閉じて腹の上で指を組む。両足を投げ出し睡魔に身を任せた。
カタカタ、カタカタ。
聞こえてくるのは周囲の雑音だ。中でもネットカフェ。地獄耳と評される信太郎の耳にはかなり響く。
カタカタ、カタカタ。
意識しないにも限度がある。一度目を空けた信太郎は、放り出されていたヘッドホンを被ると今度こそ安眠を望む。
カタカタ、カタカタ。
何故だろうか。
カタカタ、カタカタ。
耳から離れてくれない。
カタカタ、カタカタ。
いや、そうではない。
カタカタ、カタカタ。
止めては、ならない。
カタカタ、カタカタ。カタカタ、コノ音ガ、カタカタ、キエタラ、カタカタ。
カタカタ、アタマガ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、コワレル。
信太郎は飛び起きた。チェアを戻してパソコンの画面に向かう。
(そうだ、ここを裕太は抜けるんだ。その先で第三の工作を行う。その次はこうだ。ここでこうして、……そうだ! こうしたんだ! ははっこれは分からないだろう? ――いや、違う。違うんだ! そうだ。これは裕太がするんだ。犯人は裕太なんだ。――――――――俺じゃない――――――――――)
カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、カタカタ、――。
一心不乱に、信太郎は文字を打つ。そうしてある物語を紡ぐ。
どれ程経っただろうか。取り憑かれたように執筆を続けている信太郎のブースの扉が激しく叩かれた。
「こんばんは。警察の者ですけど、おたくが林信太郎さん?」
話しかけられた事にも気づかず文字を打ち続ける信太郎は、いきなりその肩を掴まれ画面から引っ剥がされた。
「なんだよ! 今いい所なんだから邪魔すんな!」
中断させられ怒りに任せ立ち上がった信太郎の眼前に、ある手帳が示される。
「はいはい警察です。私は刑事課の梅原。確認だけど林信太郎さんであってる?」
「そうですけど、警察が俺に何の用だよ」
「……ちょっと、奥さんのことでお話を聞きたいんですがね。任意同行ってことで一緒に署まで来てもらいたいんだけど」
「はぁ。妻が、どうしたっていうんすか」
信太郎の素っ頓狂な態度に、押し掛けた警察官たちは一様に眉を細めた。
「あなたの奥さんね、一昨日○○市の○○に遺体で見つかったんだわ」
「……へ? いやいやそんな馬鹿な」
「そんな馬鹿なってね、昨日何度も連絡したんだけど繋がらなくて。ま、当然だよね」
梅原は一度息をつくと信太郎へ詰め寄った。
「あんたが奥さんやったんでしょ?」
「は?」
困惑する信太郎に向けられる数多の視線は皆鋭く、相対する梅原は真っ正面から信太郎を見据えて離さない。
「初動捜査の段階で、あなたに容疑が出てきたのよ。証拠もある。どう?」
「どうって、知らないですよ全然。妻に何があったって言うんですか」
「はぁ~。そうね、○○で△△をした××の□□――」
呆れか蔑みかわからない表情を湛え、ほんの簡単な状況を語っただけの梅原に、今度は信太郎が勢いよく掴みかかる。そう、興奮を迸らせて。
「おい待ってくれ! そんな馬鹿な、……俺が今書いてる小説と全く同じ状況じゃないかっ! ははは凄いぞ、どうなってるんだ!」
突如、はしゃぎ出した信太郎の様相と相反して、その場には紛れもない静寂が訪れた。誰もが信太郎を図れず、誰もが信太郎を止めようとしない。
「お前、一体……」
至近距離にいた梅原は、呆気にとられたように手を伸ばした。それに気付いた信太郎は、梅原の手をがっしりと握り込むと、
「なぁ教えてくれ! 他はどうなっていたんだ? 俺の小説だと、遺体の左肘の内側に内出血のあとが見られるんだ。なぁどうだったんだ? 妻の左肘の内側だよ! あとはだな、近くに道路に対して側面がこう段々に――――」
「これはダメだな。志藤、精神鑑定の要ありって今のうちから伝えとけ」
「……はぁ。あの、どうなってるんですかね」
「なに、自分の行い全部を小説の中の出来事だと思い込んでんだろ。……犯行は完全に計画的だったが、ここまで狂っちまうような男がどうして女房をやったのか。おれぁそこが知りたいね」
事実は小説よりも奇なりという。
「なぁ教えてくれ! 俺の小説では完全犯罪と言ってもいいほどなんだ! なのになぜ分かったんだ?」
「なに、第一発見者はあんたの奥さんにえらくご執心なストーカー野郎だ。正直、遺体さえ上がらなけりゃ確かに分からなかったろうさ。
――――ま、小説ってのは出てくる人物だけで回るが、現実はそうはいかねぇってことよ」
沸き立ち騒ぐ信太郎は、一緒に来れば教えてやるという梅原の後ろをピタリと付いていく。後に残されたのは、大音量の流れるヘッドホンとくっきりと形の付いたチェア、後半に進むにつれて支離滅裂なモノへと変わるとある物語だった。
最後までお読みいただきありがとうございました。