少年は粋な男とジョークを交わす
少年は「やめてくれ」と呟いた。
真紫になるほど強く握られた右手には、消火用のアックスが握られている。震える斧の先を眺めながら、男はにへっと柔らかい笑顔を浮かべた。
「そう難しいことじゃないさ……。たった一度、本気で振り下ろすだけだ」
男は自らの右手を繋いだ手錠を揺らし、カシャカシャと小さく音を鳴らした。鉄パイプと右手首を繋いだ手錠は、どんな力を込めても外れそうにない。
男の左の肩口には痛々しい嚙み跡があった。もう数分もすれば、外に居るクソったれ共と同じ風になるだろう。
「ふざけるな。こんな……出来るわけがないだろ……」
手錠で自らの右手を繋いだのは、男なりの覚悟なのだろうか。それとも、少年が出来ないと見越してのことなのだろうか。
胸ポケットから最後の一本を取り出し、火も付けずに口に咥える。
「何なら、俺が意識を失った後でもいい。あんな風になるのは嫌だがな……」
男は窓の外に目を向け、ふざけたようにうえっと舌を出した。
少年が硬く握っていたアックスを手から離し、ゆっくりと膝を突く。それから、声を押し殺して泣き始めた。
押し殺した泣き声は、道路に居るあの野郎共には聞こえない。ただ静かに、男と少年しか居ない病院内に響き渡った。
「大丈夫、大丈夫だ。深呼吸しろ」
男が少年の背中を叩き、優しくさする。少年は背中に感じる暖かい手の感触に再び泣きそうになるが、歯で唇をかみ締めて必死に堪える。
地面に落としたアックスを拾い、杖代わりにしながら立ち上がる。少年はアックスを両手で構えるが、そこで再び涙を流し始めた。視界が歪み、斧の先があらぬ所を彷徨う。
「そうだな……野球のバットの振り方にはコツがあるんだ。
腕から力を抜いて、ボールが当たる瞬間に力を込める。すると、面白いぐらいボールが吹っ飛ぶんだ。自分でホームランを打ったときの快感はそう忘れられんぞ」
男が煙草を口から吐き捨て、再びへにゃっと柔らかい顔で笑った。彼は笑いを浮かべて気丈そうに振舞っているが、かすかに右手首を繋いでいる手錠が震えている。
少年は自らの瞳に溜まった涙を手で拭い、アックスを持つ両手から力を抜く。その様子を見て男がコクリと深く頷き、当たりやすいように頭を突き出した。
「俺のだじゃれを聞くか? とっておきの笑える奴だぞ」
男が頭を突き出したまま、かすかに震えた声で言った。少年も震えた声で、
「聞かせてもらおうかな。とびっきり笑える奴を」と返した。
二人の間に数秒の沈黙が流れ、男が息を軽く吸い込む。吸い込んだ息を吐くのを躊躇うように顔を動かしてから、病院内に反響する明るい声で言った。
「布団がふっとんだ! ハハハ、どうだ? 最高だろ?」
「……フフッ。そりゃあんたの実体験だろ。戦争で吹っ飛ばされたんだっけ?」
「そうそう。小便してる間に敵軍に吹っ飛ばされてな。自分が小便した草むらに隠れるのは、あれっきりでご勘弁願いたいね」
二人とも、最後の時間を惜しむようにひとしきり笑い合った。ほんの十秒しか経っていないが、二人の今までを振り返るには十分すぎる時間だった。
少年は涙を流した。男の顔が見えないほど視界が歪んでいたが、斧の先は震えていなかった。力を抜いたアックスをゆっくりと振りかぶる。
「じゃあ、あの世で一足先に寝床を確保してるぜ」
「そうか。中までしっかり焼いたステーキと、キンキンに冷えたコーラも頼む」
少年が、男の口ぶりを真似してジョークを言った。
男が一瞬目を見開き、呆れたような笑顔を浮かべる。その瞳には、かすかに涙が滲んでいた。
「注文の多い奴だな。……ったく、わかったよ。」
「ああ。頼んだ」
少年は斧を振り下ろした。男の指示通り、一瞬を見計らって力を込めた。
彼の目の前には、頭から血を流した素晴らしい男の遺体しかない。この世の中、こんな風に倒れている死体はいくらでもある。
頭を潰したせいで、彼が起き上がることは二度とない。ほんの少しカスがこびりついた猫用の缶を取り合い、互いに何も食べられなくなることはない。暖かい場所を取り合い、結局二人とも熱くなって寒い場所で寝ることはもうない。
少年は血まみれの肉塊に抱きつき、今度は声も押し殺さずに泣いた。年に似合わない大人の風貌を漂わせる少年は、今日だけは年相応に泣いた。
神の気まぐれか、少年の泣き声が道路のクソ共に届くことはなかった。いつしか少年は泣き疲れ、安らかな寝顔をして眠りについていた。
男の遺体に付けられた手錠をアックスで叩き斬り、彼があの世で粋なジョークを飛ばせるように祈った。少年の首には、男の古臭いドックタグが掛けられていた。
三人称の習作