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僕の全ては誰かの記憶。  作者: 荒崎 皐月
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彼は僕の中で生きている。


目覚めた時、目の前には大きな無影灯が堂々と天井から僕を見下ろしていた。


眩しくて目をそらすと、僕の寝ているベッドの周りに白衣を着た男がずらりと並んでいることに気が付いた。


ピー・ピー、と無機質な音が一定間隔で鳴り響き、消毒液のような臭いが充満したその部屋は、いかにも手術室と言った場所だった。


僕の右腕にぴったりと張り付くように立っていた小太りの60代くらいの男が、額に汗を光らせながら僕の顔を覗き込み、

「私が見えているかね? 声も聞こえているかい?」と言ってきた。


分厚い眼鏡の奥で小さな目がギラギラと光り、僕は捕食されるのではないかと少し心配するほどの圧力だった。


普通に見えているし、聞こえていると伝えたかったが、僕がどうにもうまく声を出すことができずにいると、まだ無理はすることない、と男は言った。


「じゃあ、少し質問するから、頷くか首を振るかで教えてほしいんだ。いいかね?」

眼鏡の男は、汗を白衣の袖でぬぐいながら僕に言った。僕は言われた通り頷いた。


男は、りんごは青かだとか魚は歩くかだとか、無茶苦茶なことを僕にたくさん質問してきた。


それなのに、周りにいる男たちは皆興味深そうな顔をして僕の事を観察しているようだった。


ある者は手に持ったクリップボードに何やら書き殴り、ある者は分厚い書物を指でなぞり、またある者はカルテのようなものをペラペラとめくりながら眉間にシワを寄せていた。


僕は終始釈然としないまま質問に答え続けた。


しかし、最後の男の質問で僕は完全に思考が停止した。


ー自分の名前はわかるかー


僕はその質問だけはすぐに首を動かすことができずに、じっと銅像のように固まっていた。


「……わからないのかね?」

男が再度聞いてきた時、ようやく首をわずかに下に揺らすことができた。


僕の事を僕は何一つ分かりはしなかった。

なぜここにいるのかも、好きな食べ物も、親の名前も……

何一つとして分からなかった。


僕が頷いた後、周囲を取り囲んでいた男たちはザワザワと話し始め、皆で部屋の隅へ移動し何やらずっと話していたようだが、混乱しきった僕の頭には何も入ってはこなかった。


やがて、数人の男が僕のベッドまで戻ってきて、そのうちの1人が、

「どんな些細なことでも構わない、何か覚えている事はあるか?」と聞いてきた。


僕は力なく首を縦に動かした。




僕の覚えている記憶の全ては〈月城 千秋(つきしろ ちあき)〉という青年のことだけであった。


僕は彼のことならば、どんな事柄も詳細に語り切る自信があった。


好きな女性のタイプ、靴のサイズ、精通した時の状況さえも鮮明に思い出すことができるのだ。


まるで横で彼のことをずっと見てきたかのような、そんな感覚だった。


じっと密かに横に立ち、彼とともに彼の人生を歩んできた。そうとしか思えないほど、全ての記憶には色があり、匂いがあり、感情が湧き出てくるのだ。


僕は彼の今が知りたくなり、必死に声を出そうとした。

しかし、僕が発した音は、初めて陸に上がってきた半魚人の鳴き声のようなものだった。


身振り手振りでなんとか紙とペンを受け取り、

"月城 千明という青年の事だけは覚えています。

彼は今どうしているのですか?"

と綴った。


白衣の男たちは、また部屋の隅へ集まってー今度はヒソヒソとー話しだした。


僕は彼らが話している間も、紙に彼のことを書き続けた。


彼の特技、彼の通っている大学の名前、彼の両親の名……

あらゆる記憶が溢れ出して止まらなかった。

どれもこれも鮮明で新鮮で、書いているだけなのにその空間へ入り込んでいるような気分になった。


夢中で書き殴っている所に、さっきの眼鏡の男が代表して僕に近寄ってきた。


僕が必死に書き綴った紙を見せると、男はとても苦いものを口に溜めたような顔をした。


そして、満遍なく禿げかけている頭をボリボリと爪で掻いた後、ペチャッ、と嫌な音を立てて口を開いた。

「いいかい? 君の言っている"彼"は、君自身のことなんだ」


その言葉が、何度も何度も頭の中を巡ったが、理解して飲み込むには、大分時間がかかった。


どのくらい経った後だろう。

混乱した僕は唐突にペンを握りしめ、紙を手繰り寄せた。


"たしかにぼくには千秋のきおくがある

でもそれはぼくのきおくじゃない

だってすべては"

僕の手はそこで止まってしまった。


……なんと続けて書く?


〈全ては、彼の記憶だから〉


これが、その他の言葉を一切受け付けないような、完璧な説明だとも思えるほど、僕にはしっくりくる言葉だった。


しかし同時に、意味のわからない説明だとも感じ僕の頭は更に混乱した。


僕の動揺を感じ取ったのか、眼鏡の男は僕から紙とペンを回収し「焦る事はない」とだけ告げて部屋を出て行った。


部屋の扉が閉まると同時に、一時の静寂がこの空間を飲み込んだ。

残った男たちは、口の聞き方を知らないかのようにじっと黙り込んで息をひそめるように突っ立っていた


やがて、ある1人が口を開いた途端に張り詰めた糸は瞬時に解け、同時に男たちの肩の力がスッと抜けたようだった。


男たちが今後のことや慰めの言葉を言ってきたが、あまり僕の頭には入ってはこなかった。

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