プロローグ1 切っ掛けはハイキング
「拝啓――父さん、母さん、妹の香。僕はもう駄目かもしれません」
鬱蒼とした木々に囲まれた森の中、僕、坂本薫は独り嘆く。
全身から滴る汗、両肩が激しく上下する程に乱れた呼吸。――そしてタプンタプンと自己主張する腹回り。
はみ出そうなその肉を抓む。本当憎たらしい駄肉だ。今までの人生でこの駄肉を疎ましいと思ったことは二、三度しか記憶にない。
「本当、どうしてこうなったんだろう?」
一向に収まらぬ汗を拭いながら適当に倒れていた木に腰を下ろし、ほんの数時間前の出来事を思い返す。
あれは、うだるような暑さで、蝉の声がうるさかった朝の出来事で――
「兄さん、ハイキングです」
「……ぱーどぅん?」
エアコンの効いたリビングで、ニュースを見ながらボリボリくんメロンソーダ味に舌鼓を打っていると実の妹から突然死刑宣告を告げられたことはあるだろうか? いや意外とあるかもしれないが、少なくとも僕には初めての経験だった。
贔屓目が入っているかもしれないが、妹の香は良い子だ。
まだ中学生にも関わらず家事を完璧にこなし、学校の成績も優秀。ぽっちゃり系の僕とは正反対にスレンダーで性格も良いと良い点を挙げればキリがない。
そんな妹から信じられないことを言われたのだ。思わず日本語を忘れてしまったのも仕方がない。
「兄さん、ハイキングです」
数秒首を傾げ、言われた通り繰り返し死刑宣告をしてきた。
うん、もう一度言えとは言ったがどちらかと言えば理由を言って欲しかった。もっと言えば嘘だと言って欲しかった。
「香さんや、今日は何月何日だっけ?」
「八月一日ですね。大丈夫です、エイプリールフールではありませんし、冗談のつもりでもありません。本気で言ってます。ハイキングに行きますよ。準備はもう出来ています」
「……おーまいがー」
完璧にこちらの心の声を読んだ上でした。
「香さんや、ちょっとこちらを見てほしいです」
『今日の最高気温は三七度。外に出掛ける際は熱中症対策をしっかりと取り……』
丁度ニュースで今日の気温についてやっていたので震える指でしっかりと指し示す。
ほら、お天気お姉さんは控えめに外に出掛けるなって言ってるよ? それなのにハイキングなんて……。
「兄さん」
「……分かってくれたか」
「ちゃんと帽子と水分は用意してあります」
「そうじゃない! そうじゃないよぉ! こんな日にハイキングに行きたくないって兄心だよぉ!? うん、僕もしっかりと聞かなかったのが悪かったからちゃんと一から説明してくれるかな!?」
そこまで言ってようやく香も納得がいったのか、大きく頷いた。
そしてツカツカと近づいてきたかと思うと――いきなり右手で僕の脇腹を掴んできた。
「何するのさ!?」
「……兄さん、今体重何キロですか?」
プルプルと震えながら僕の肉をブニブニと抓まないで頂きたい。可愛い仕草だけどやってることは結構酷いと思うから。
それで、体重だったか。確か昨日の風呂上りに計った時は――。
「72キロだね」
「夏休み前は、何キロでしたっけ?」
「……69キロだね」
「もう一つ質問良いですか? ――私の隠しておいたアイスはどこにいきましたか?」
「君のような勘のいいガキはあいたたたた!! ゴメン! ゴメンってば!! 千切れる! 千切れちゃう!?」
無言で思いっきり脇腹肉を抓りあげてくる香に必死になって謝罪をする。でもね、風呂上りに冷たいものって食べたくなるじゃない。冷凍庫を開けたら丁度アイスがあったら手に取りたくなるじゃない。だって人間だもの。
「元々兄さん用に買ってあったアイスです。勝手に食べたことはこの際置いておきます」
「流石マイシスター、広い心を持っている。さぁ、良い子だからその手をはなし……」
「で・す・が! 一晩で五つあったアイスの内三つも食べるのは流石に許されません!」
「いだぁぁぁぁぁぁあああああああ!!」
なんということだろう! 妹の怒りは片手で抓る程度では晴れることがなかったらしい!
空いていた左手も加わった脇腹への攻撃は僕の知る痛みを軽々と超えていった! まさに拷問!
正直涙が止まらない。これ以上は本当に千切れてしまうかもしれない。とりあえずはなしてもらわないと!
「香! 香ざん! 一旦、一旦で良いがらその手をはなじてください! おでがいします!?」
「ただでさえぽっちゃりしてるのに、このまま兄さんはぽっちゃりを超えておデブになるつもりですか!? 毎日毎日ジュースにアイスにお菓子三昧とハイカロリーばっかり!」
あ、これダメだ。話聞いてくれる状態じゃないですわ。
「ダイエットです! ダイエットをするんです!!」
「いだだだだだだだだ!!! 分かった! 分かったからはなして!? あああああああああああ!!」
「兄さん、ハイキングです」
「はい」
数分後、落ち着きを取り戻した妹からの三度目の死刑宣告。しかも今度は右手を構えていつでも拷問の再開を匂わせている。
僕だって相棒の命が惜しい。ここは大人しく従おう。
――今思えばこれからのことを思えばここで相棒を見捨ててでも拒否の姿勢を見せれば良かったのだろうか?
いや、それだけは決してない。僕がこうしてハイキングに行かなければ――
妹を永遠に失うことになっていたのだから。
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