第41話 心の準備
それからは、もう、悲しい笑顔だけがその場にあった。楽しもうとしているのが分かる。必死に笑って、必死に楽しんだ。
最後じゃないと思いたくても、異様な力との戦いを前に、どうしても、もしかしたら――と。
「文化祭終わったし、次の行事は何だー?」
空元気がバレるぞ、と言いたくなるほど直は明るかった。
「笹神の大嫌いなテストよ?」
「うわぁぁぁ! 花音ちゃん、マジかよ!」
「赤点、今度こそ取るんじゃないか?」
前回のテストで直が赤点を取っていないのは異様だったのだ。今度こそ、必ず取る!取ってこそ直だ。
「み、見てろよぉ! 絶対、高得点とってやんぞ」
「出来るもんならな」
殆どの料理がお皿から消え、姫子さんは少しずつ片付けを始めた。
気づくと、時刻は午後八時ぐらいだったが、まぁ、あの時間から始めればそんなものだろう。
「あ、 そろそろ美乃里先生、起こした方がいんじゃね?」
直が思い出したように姫子さんに声を掛ける。
「それもそうね」
「おーい! 起きなさい?」
ソファーの上でぐっすり眠っている、美乃里先生の肩を軽く揺すぶった。が、美乃里先生は姫子さんを手であしらう。
意識は眠ったままなのに、起こされてることには気づいているようだ。
「はぁあ。だから、彼氏出来ないんじゃないのー?」
気づいた時にはもう、遅かった。
そう、その言葉は禁句なのだ。特に今日という今日は……。
美乃里先生は、がばっ、と起き上がると、何故か俺を鋭く睨む。
「すぅがわら! 何時まで私を侮辱するのよ!」
少量しかお酒を呑んでいないはずの美乃里先生だったが、まだ酔いが冷めていないのか、涙目で不機嫌だ。
いや、そんなわけは無い。この人の事だ。寝起きが悪いんだ、ただ単に。
「てか、俺じゃないっすよ!!」
「じゃあ誰よ」
どうして皆一斉にこっち見る!?
どう考えても、今のは――。
姫子さんに目を向けた所で、俺は全てを察した。
笑顔の裏から悶々と伝わってくるこの威圧感に加え、「合わせろ」の文字。もちろん語尾には、ハートマーク付き。
「すいません……俺でした」
どうして、こんな事に……。
「やっぱり、菅原なのね! ……そう、やっぱり半殺しだと緩かったようね。ならば、合コンをセッティングしなさい? そうすれば、許すわ!」
その自信満々な考えは何処から来るんだ。仮に俺が合コンをセッティングしたとしよう。仮にだ。それで彼氏が出来る、何て誰が言うだろう。しかも、俺が集められるとすれば、男子高校生。教師と、何て最早犯罪に近いだろ!
この人の思考回路には付いて行けそうにないな。
「あ、あの、美乃里先生? 私は彼氏出来ると思いますよ?」
恐る恐る、先輩がそう言ってくれたのは俺への助け舟なのだろうか?いや、そんなわけないか。
それにつられるようにして母さんは、
「そうですよ〜先生! こんなに、可愛くて、料理も出来て、優しいんだから!」
それを母さんが本気で言っているのかは別として、持ち上げるの上手いな、と感心する。
「ふふふ。やっぱり、そう思う? 私もそろそろ、現れるんじゃないかなーって思ってたのよね」
彼氏は勝手に現れる、って設定なのか。
それで、機嫌が良くなったのか美乃里先生は、
「じゃあ、今日は大人しく帰るわ。じゃぁね〜」
等と口にすると、直の部屋を後にした。
「はぁ、やっと騒がしい人が居なくなったかー」
「あ、それ美乃里先生に言っちゃお!」
悪戯な笑みを浮かべ遠山は直をからかう。
意外とあの二人、気が合うのかもな、何て思ってしまった。
「じゃあ、そろそろお開きにする?」
「そうすっね」
姫子さんに俺は頷く。片付けは直と姫子さんがやってくれると言うので、俺たちはその言葉に甘える事にした。
そして、それぞれの部屋に戻ろうとした時だった。星灯先輩が俺と母さんを遠山にバレないように引き止める。
「……ちょっと、お話が」
遠山が部屋に戻ったのを確認し、俺と母さんは星灯先輩に続いて先輩の部屋へと入った。
この部屋に来たのはあれ以来だ。
先輩が引っ越して来て、デスタルの事や、クロスの事を聞いた――あの、まだ蝉が鳴いていた夏の日。
「先輩、話って?」
「うん。……デスタルの事」
相変わらず先輩の部屋はモノがあまり無くて、自分の部屋よりも広く感じられた。
「とりあえず、床で悪いけど座ろうか?」
壁側に背を向け、三人並ぶようにして座った俺たちは互いに顔が見えなかった。でも、その方がありがたかったかもしれない。
「どうぞ? 話、始めて良いよ」
母さんが少し沈黙してしまった、先輩に声を掛ける。
「はい……。デスタルにいつ行くか、を考えてたんです。行くなら早い方が良いと思ったんですけど」
「うーん、そうね……」
確かに、行くなら早い方が良い。決めた事をいつまでも、うじうじしていりのも何だし、それに……大開放が起きてからでは何もかもが遅いのだ。
「……明日。明日にでも、俺は行きたいです」
大開放が先に起きるぐらいなら――。
「明日かぁ。虹波は気合い十分ね〜。よしよし」
「私もいつでも大丈夫だから。きっと月灯も」
「じゃあ、明日の朝、星灯ちゃんの部屋に集合で良いかな?」
俺と先輩は母さんの言葉に頷く。と、同時に緊張感が高まった気がした。
「じゃあ、これ以上お二人さんのお邪魔するのも何だし……私は先に戻ってるわね」
何を勘違いしているのか、母さんは俺にウィンクを向け早足で、先輩の部屋を出た。
「い……っちゃったね」
「はい……」
「まぁ、私も話したかっのはこれだけだったし、虹波君も休んで大丈夫だよ?」
先輩はそう言ってくれたのだが、何でか、もう少しだけ――一緒にいたい気分だった。
もしかしたら、明日が来るのが怖いのかもしれない。自分で指定しておいて、間抜けな話だ。
「虹波君?」
「あ、いえ。……ただ、明日のこの時間には戦ってるのかと思うと」
「……大丈夫だよ。きっと。上手くいくよ……」
「はい、そうっすね」
やっぱり、今日は帰ろう。
「先輩、じゃあ、また明日」
「うん。お休みなさい」
扉を閉める直前、俺が見た先輩の顔はやっぱり、優しさに満ちている、透き通るような笑顔だった。