第4話 夢を見た
職員室から出た俺は先輩の教室に向かう。
職員室は教室棟の一階にあり、各学年の教室は二階から置かれている。それぞれA組からC組まであり三十人編成になっている。
俺は二年の教室のある三階へ向かった。階段を上る足音が誰もいない廊下に響きわたる。階段を上りきると一番最初に見えたのは二年A組の扉だった。端に二年A組と始まり右方向にB組と続いている。先輩のクラスはB組なので、俺は迷わず扉の前へ行き、取手に手を掛けた。
教室内は冷暖房設備のあるものの、起動されておらず、それに加え窓も閉め切られた状態の様だ。この教室の高温の空気の塊が扉を開けた瞬間に俺を包んだ為、暑苦しくてしょうがない。
教室の中には誰かいるようだった。ぽつんと一人で机にうつ伏せている。俺は、もしかして先輩かもしれないと思いその女生徒の傍へよる。少し近づいた所で目に入ってきたのは切れてしまいそうな程細く美しい銀髪。この時点で俺はもう、この生徒が星灯先輩だと確信した。
「星灯先輩?」
先輩に声をかけると先輩は直ぐに俺に気が付いた。
「………あ、虹波……君」
ふらりと、立ち上がった先輩は何だか様子がおかしかった。具合でも悪いのだろうか?
すると、座っていた机から出て俺の方に来ようとした先輩は態勢を崩しガタガタガタっと、隣の机に倒れ込んだ。
「ちょ、先輩!? 大丈夫ですか? 先生か誰か呼んできますから待ってて下さい」
俺は迷わず保健の先生を呼びに行き、先輩を保健室まで運んでもらった。
☆☆☆
「えっと……君は1年の」
「菅原ですよ」
先輩の眠る保健室で俺と保健教師である美乃里先生は軽く会話を交わした。割りと白黒はっきりした様な分かり易い性格で、常に彼氏募集中らしい。学校の生徒全員に下の名前で呼ばせる所からして彼女がモテないのは明白だ。だが、見た目は良い。あくまで見た目は。はっきりとした目鼻立ち。小顔にショートの淡い金髪。喋らなければ良いのに、と他の教師が話しているのを聞いたことがあるくらいだ。
「えっと、名寄さん? 軽い熱中症だね。彼女、きっとあの閉め切った教室に長い事いたのね。脱水症状になりかけてた。菅原君が見つけてくれて安心だわ、本当」
「え? 何で、先輩ずっとあんな所にいたんだろ?」
「私が知るかっ」
で、ですよねー。
え、でも今の話だと、ホームルームが終わってから先輩ずっと教室にいたんじゃ……見るからに体強くなさそうなのに。昨日の事ならそんな大した話でもないだろうに、どうしてそこまで。
「私、今日合コンなのよね」
淡い金髪の髪を手鏡に映しながら、美乃里先生は前髪の分け目を変える。
「はぁ!?」
合コン、という教師ならざる発言に思わず苦笑いが漏れる。
「違うわよ、そうじゃなくて。……彼女、名簿の情報を見ると今日、引っ越したらしいのよ。あんた、弱ってる女の子一人で帰らせたりしないわよね?」
「引っ越しとか関係なく、もちろんそうするつもりでしたよ!」
てか、今日引っ越しとか大丈夫なのかよ?荷物とか。
心配は色々あるが先輩が眠ってる今、俺が考え込んだ所で時間の無駄というものだ。
「んじゃ、保健室の戸締りも宜しく」
鍵を俺に投げつけると、そう言い残し美乃里先生はその場を後たにした。
美乃里先生が去った後、俺はなんとなく先輩の傍へ行った。ベットを囲む風に揺れる白いカーテンをゆっくりと開け、ベット目の前に丸いパイプ椅子を持っていく。
眠っている先輩は、このまま眠り続けるのでは無いかというぐらい儚く透明な寝息を立てていた。
「本当……どうして、ずっと教室で待ってたんですか? 来るかも分からないのに」
答えの返って来ないと分かっている問いを、線香花火が落ちる間際の様に静かに小さく問いかける。
時々窓から吹きかかる夏の風が心地いい。すると、だんだんと俺は眠りへと引き込まれていった。
――夢を見た。母親の夢だ。俺が最後に母親に会ったのは六歳の時だった。だから、あまり母親の顔や言葉は憶えていない。ただ、最後の瞬間……その時の記憶というのは嫌に鮮明で俺を時々苦しめる。母親は最後に泣きそうな優しい笑顔で言った。
「必ず、貴方を守るから。必ず、貴方の元へ帰るから」
だが、今だ母親とは再会していない。父親はその出来事以前に他界していて、それこそ記憶があまりない。祖父母に育てられた俺は母親が何処で、何をしていて、俺をどう思っているか検討もつかなかった。祖父母に母親について尋ねた事がある。けれど、遠くを見つめたまま俺の頭を撫でるだけだった。
行って欲しくなかったのに、守らなくても良かったのに、帰ってきて欲しかったのに……何時しか希望は諦めに変わり、母親の夢は絶望や孤独が俺を襲う。
「………くん………虹波君」
先輩に声を掛けられ、俺は眠っていた事に気がついた。外はもう既に夕方で赤朽葉色の夕日が窓の外から差し込んでいる。
「……せ、んぱい? 起きたんですね」
しかし、先輩は首を振り俺を心配そうな表情で見つめた。
「私はいいの。それより……大丈夫?」
「何がですか?」
すると、困ったように笑った先輩はゆっくりとこちらに手を伸ばし、俺の涙を拭った。そう、俺は自分でも気づかないうちに涙していた。
「あ、れ?」
「虹波君、私を運んでくれてありがとね」
「…………っ」
先輩の前だからと我慢していた涙は余りにも先輩の声が、表情が、手が、とても優しくて溢れ出してしまう。俺は先輩の前で息を殺すように――泣いた。