第30話 記憶の中の優しさ
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笹神直は妖魔に近づいた。
虹波が言っていた様な感覚はしない。
しかし、まるで重力にでも押しつぶされているような感覚、心臓が張り裂けそうな程激しく波打っている。足首や手首など、洋服から肌が直接見えている部分が、ひりひり、と痛い。
「こういう事かよ……っ」
一歩一歩足を進め、妖魔の目の前に立った時にはもう、笹神直は立つことすら困難だった。重力の様な感覚に負け、膝と手を地面に付く。ぽたぽた、と地面には汗が落ちた。
「……はぁ……はぁ、くそっ……たれが……っ!」
笹神直はゆっくりとポケットに入れた、あの丸い物体を取り出した。
「……これを……お前に、投げ入れっ、なきゃ……いけねーんだよ」
息を止める様な感覚で、ばっ、と顔を上げる。鳥の姿をした真っ黒な妖魔は羽をばたつかせ、小さな羽を舞落とす。今にも何処かへ飛んで行ってしまいそうな妖魔に彼は叫んだ。
「……っ待てつってんだろ……! はぁ……はぁ……。ぅあああああ゛
!」
これでもかというぐらいに足に力を入れ、自分を立たせようとする。丸い物体を持つ手を後ろに引き
「……ぁあ゛……とぉどけぇえ!!!」
彼の手から離れたそれは弧を描き、妖魔の中へと吸い込まれていった。すると凍りついた様に妖魔は一瞬だけ時を止める。その直後、ぱりん、とガラスが割れるみたいにそれは割れ、光の欠片となって消失した。
同時に彼を支配していた、重力や痛みなどの現象も消え去り笹神直は息をついた。
「……終わったのか?」
急に力が抜けた笹神直は、その場に寝転がり空を仰いだ。
「はぁ……仕事終了、と」
☆☆☆
デスタルとこちらの世界を繋ぐ通路を探すべく、学校の外に出て走り回っていた俺は見るからに異様なものを見つけた。空中に壊れたディスプレイの様な――砂嵐とでも言おうか――四角い空間が浮いていたのだ。
「もしかしなくても……これなのか?」
行くしかないか、と思い俺はその空間に飛び込んだ。中は少し先に光が見えるだけで周りは暗い。真っ黒い空間だ。
きっと、あの光が出口――いや、デスタルへの入口――なのだろう。
「……星灯先輩」
少し走ると、その空間は直ぐに抜けられデスタルだと思わる場所へ着いた。
そこは何だか輝きの欠けた世界だった。草も花も木も家も、俺の周りにあるもの全てあの世界とは違っていた。デスタルのそれらはまるで小さい子が画用紙に書いたような、薄っぺらくて、はっきりとした色合いで……。
「ここが、デスタル……?」
草花の生えた道をとりあえず進むことにした。だけど、デスタルの何処にいるんだ?
「もう始まっちまったんじゃねーか?」
「いやいや、王様達はお優しい。待っていて下さる」
俺の横を早歩きで通り過ぎようとしている、中年の夫婦の会話が俺の耳に入った。
王様?よし、聞いてみるか?
「あの、すいません。始まる……って何かやるんすか?」
すると二人は驚いた様に顔を見合わせた。男の人が恐る恐る口を開く。
「あんた……本当に知らんのか? ……今、あそこに見える王宮の中の広場で元クロスプリンセスの公開処刑が行われてるんだよ……」
こくん、と頷き女の人も続ける。
「王様に逆らったんだ、当然の報いさ。私らは名寄星灯の運命を見届けるのみ……」
「…………い、急いでる所ありがとうございました」
そこで会話は終わり、二人はまた早歩きで去っていってしまった。
……っ処刑?
地面に落としていた視線を、ばっ、と上にあげた。
場所は分かったんだ。考えるな、今は急げ!!
王宮の前に着くと、やはり門番が立っていた。デスタルの人だったら堂々とあそこを通れるのだが、俺が侵入者とバレてしまう事を思うとこそこそしないといけない事は否めない。
俺は武器も何も持っていないし、何より戦った経験が無いのだ。あの門番を倒すのはまず無理だろう。
妖魔を浄化する時だって俺はあの白い空間にいたからな……。
そんな事を考えていると、ふと右置くに地下へと続いていそうな階段を見つけた。木の陰に隠れながら少しずつ、俺はそこへ近づいた。
「……よし」
気合を入れ直し、俺は階段へ足を下ろした。
敵がいない事を全力で祈りながら、ゆっくりと足を進める。暗い足元を頭上のランプが照らしていた。
階段を降り終えると、周りに敵の姿は見当たらなかった。
「ここは?」
まるで牢屋だった。黒く冷たい鉄格子が目に入る。壁で区切られているがずっと向こうまで続いているらしかった。
「……向こうに進まなきゃ先輩の所へは行けないよな」
牢屋なら監視がいてもおかしくないのだが、見当たらない為、それが更に俺の不安を煽る。足を進めるたび、ちらちら、と鉄格子の中の人影が目に映る。
凶悪な犯罪者?
もし、出てきたら俺死ぬよな……。
「……ねぇ」
やばい……。話しかけられてしまった。ここから出して、とか言われたらどうしよう……!!
「あ……えっと、何でしょう?」
必死に笑顔を作り、声の聞こえた方に顔を向けるがこの暗さのせいで相手の顔は見えない。
「貴方、人間……よね?」
「えぇぇ! この人、人間なんですかぁ?」
落ち着いた女の人の声の横で今にも泣き出しそうな男の人の声がした。
人間って聞かれたけど、どうしてデスタルの人じゃないって分かったんだ?いや、俺の場合人間でも無いのだが。
「……いえ、人間じゃないですよ」
「ほっ……。何だ、違うじゃないですかぁ」
「そう。その瞳の輝きは人間だと……思ったのだけれど。でも……貴方、何故ここにいるの?」
「確かに。デスタルの一般人がここに来るわけないし……城の人でも無さそうだし……」
男の人の声が、うーん、と繰り返す。
凶悪な犯罪者、の雰囲気を感じさせない二人に戸惑いを感じる。
だとしても、ここでどう答えるべきなのだろうか?
黙り込んでいると、再び男の人が口を開いた。
「ほら、深夜さん……この人困ってますよぉ?いくら暇だからってー」
「良いじゃない。気になったんだもの」
………はい?今、深夜さんって……言ったよな?
でも、そんなはず無い。だって、母さんは……。
『 深夜さんは、虹波の代わりにデスタルに捕らえられたわ。貴方を守るって…… 』
姫子さんの言葉が頭の中で蘇った。
俺は膝をつき、鉄格子を両手で掴んだ。鉄格子のすぐそばにいた女の人と視線が重なる。
……この人が?
緩く斜めに結ばれた黒髪。優しそうな瞳。母親にしては若そうな年齢。
「あの、どうかされました?」
「……母さん?」
俺は声に出してその人の名を呼んだ。
「え……? ………………ううん、ありえない。だって、私の息子はデスタルに関わってるわけ――はっ……」
そこで、いきなり言葉は切れる。女の人は両手で顔を覆い俯いた。
「…………うっ……うぅっ……どうしてよ? 虹波――」
その懐かしい響きに、力が抜け、俺は身を縮めた。
やっぱり――。
『虹波!』
『虹波?』
『虹波っ』
『虹波……』
頭の奥に追いやられていた懐かしい記憶。全てを包み込む様な優しい声。嗚呼、母さんだ。
「……楽しかった。5歳よりも前、俺はあなたといれて楽しかった。だからこそ、期待が、帰ってくるっていう期待がとても大きかった。だから……その分、絶望も大きくて……でも、俺は母さんにーーーー会いたかった」