衝撃
第二章 邪悪猫
俺達が偵察機で地上にいる人間を確認してから、三ヶ月が経過した。
ASは地上開発を推し進め、旧学校を基地として改修し、AS部隊は本格的に遠征調査を行うまでになっていた。
幸いなことに、基地周辺に《賢者》は現れなかった。
―――が。
勿論、犠牲がゼロ……というわけにはいかなかった。遠征に出かけた隊員の中には《賢者》と遭遇し、命を落とした者もいる。致命傷を負い、苦しみながら逝った者、腕を喰いちぎられ、戦線を離脱した者も……。
彼らの犠牲を無駄にするわけにはいかない。そんな、地上奪還への思いがますます強くなった三ヶ月間だった。
「ねぇ……何で私達は五時間も石を積んでるの?」
「仕方ねぇだろ? この基地は丸裸同然なんだぜ? こうやって堤防を作っとかないと、《賢者》に攻められたら終わりだろーが、ちょっとはそのちっこい頭ん中に入ってるトロットロの脳みそ使ったらどうだ?」
「なによっ! あんただってさっきまで文句言ってたくせに!」
「俺はリリィちゃんと違って頭の回転が速いですからねぇ……ってちょっと待てっ! そんなデカイ石ぶつけられたら……ぶへほっ⁉」
怒りに身を任せてリリィの放り投げた石が俺へと迫ってきた。
な、なんてバカ力だ……数十キロはあるんだぞこの石……。
ドスンッ……というよりももっと鈍く、荒々しい音が辺りに広がる。
間一髪のところで避けることが出来たが、喰らってたら戦地に赴く前に屍になるところだったぜ。
リリィは息を荒げて、鋭い眼光を俺に向ける。
「こんのバカメガネ! 次私をバカにしたら、あんたのその真っ赤なメガネかち割るわよ!」
「いや、これメガネどころじゃ済まなかっただろ……」
「なんか言った?」
「いえ、滅相もございません」
俺が平謝りを披露すると、リリィは、少しは機嫌を直したようで、「ふんっ」と腕を組み、一点の曇りもないきれいな瞳で俺を見る。
「そろそろ基地へ戻るわよ。もうすぐ日が暮れるわ」
「そうだな……この続きは明日ってことか」
夜の作業は非常に危険を伴う。夜行性の《賢者》が襲ってきたりしたら、流石にひとたまりもないからな。
立ち上がり、俺とリリィは基地への帰宅の途につく。
あの日、偵察機を飛ばしたあの日から、俺とリリィはあの人間の事については、一切触れなかった。お互い本能的に理解したのか、そうしようと決めることなく、一度も。
世の中には知らない方が幸せだという類のものもある。
きっとあれもそうなんだろう……と。
「そう言えば、今日は【ツクヨミ】隊が遠征に出てる日だっけ?」
「うん。もうすぐ帰ってきてもいい頃合いじゃない?」
【ツクヨミ】隊は、中々の実力者が揃っていると噂されている部隊だ。
【ロキ】隊もいつかそんな風に言われる日が来てほしいもんだぜ。
会話をしながら歩いていると、草むらの方から不意にガサッ、という音が聞こえてきた。
《賢者》か? と一瞬警戒を強めたが、違う。
俺達が向けた視線の先―――草むらの中から、何者かが這いずって出てきた。
「―――どうしたっ⁉ やられたのか⁉」
出てきたのは、左腕の肘より先を失い、ひどい出血をしているボロボロの青年だった。
見覚えがある……確か、【ツクヨミ】隊の【アサルト・シャッフル】で、名前は……そう、ランド・シャークだったはずだ。
慌てて駆け寄って状態を確認するかろうじて意識があることは確認できるが……おそらく長くは無いな。
「……ば、化け物……だ……あ……あれ……は……」
「化け物だと? どういう事だ⁉」
引き裂かれたような跡を残す左腕を見ると、紐で縛っているにもかかわらず、とても考えられないようなスピードで、腐敗が始まっていた。
(これは……毒……なのか?)
止血をしている……という感じではない。毒が回るのを遅らせているんだ。
ランド・シャークは、生命の最後の力を振り絞るようにして、こう言った。
「人……人の姿を……した……ね……こ……」
「『人の姿をした猫』ってなんだ? おいっ……しっかりしろ! おいっ!」
俺の声は、とうとうランドには届かなかった。
本当ならとうに死んでいてもおかしくない状態だった。きっとランドは、これを伝えるためだけに、ここまで戻ってきてくれたんだろう。
「……リリィ、すぐに医療班を呼んで来てくれ」
「で、でも……その人はもう……」
リリィの声が震えている。無理もない、目の前で人が死ぬのを見るのはリリィにとっては初めてのことだからな。―――でも!
「はやくしろ! こいつの腕はありえない早さで腐ってる……解剖すれば原因が分かるかもしれない。俺達に出来るのはこいつの死を無駄にしないことだけだ」
俺の声で、基地へと駆けていくリリィの足音が聞こえる。
(人の姿をした猫……それが本当だとすれば……)
しばらくして、リリィに呼ばれ駆けつけた医療班が担架を持ってやってきた。
「敵の攻撃を受けている左腕から、急速な腐敗が始まってる。原因をすぐに調べてくれ」
俺が言うと医療班の人間は黙って頷き、もう動くことのないランドの体を運んで行った。
あとは、医療班の人間が全力で原因解明に挑むだろう。
「バカメガネ……」
「大丈夫かリリィ? 無理するなよ?」
「大丈夫よ。私だって、こういう状況に直面することを覚悟してASに志願したんだから。これくらいで音を上げるわけにはいかないわ」
『覚悟』という言葉が俺の心に深くのしかかってきた。
俺には、はたして覚悟はあったのだろうか? この悲劇を生む戦場へと赴く覚悟が……。
「リリィは、強いな」
俺がふと漏らした言葉を聞いた瞬間、リリィの顔が熱湯を掛けられたみたいに赤くなった。
「な、なななな、なによいきなりっ⁉」
どうしたんだ? 何か俺はまずいことでも言ったか?
「俺の方が、もしかしたら覚悟が足りてなかったのかなと思っただけだ。深い意味はねぇよ。それより、父さんに報告しに行かないと。俺達は指示なしには動けないし……」
「そ、そそそっ、そうね……【ロキ】隊のみんなにも伝えないと……」
「ああ。そっちはリリィに任せるよ」
「わ、分かったわ」
そう言って、リリィは足早に地下エレベーターの方へと向かって行った。
俺も、小走りで基地内へと入って行き―――かつては校長室になっていた現総指令室に向かう―――
実を言うと、あの時以来、俺は父さんとまともに会話をしていない。
人類をここまで支えてきた父さんを……疑っているわけではないが、顔を合わせ辛くなったのは事実だ。
あのおっとりとした表情の奥底で、もう一人の父さんが俺を隅々まで観察しているような気がしてならない。
あの一瞬の、画面越しで絶対に合うはずのない目が、脳裏に焼きついて離れない。
そんなことを考えていると、とうとう扉の前まで来てしまった。
大丈夫だ……親を信じないで何が息子だって言うんだよ……。
俺は大きく息を吸い込み、扉を開ける。
そこには、玉座ではなく、黒の椅子に腰かけた父さんがいた。
「火野総司令官、お話があります」