第一話 死者と踊る者
ランプと星々が仄かにその姿を照らす夜更けの街。その片隅の寂れた通りにラーツィア=エルルキアは羽のような軽さで降り立った。タートルネックの白いインナーに黒のワンピースという変哲もない格好に、纏った闇色のマントが異彩を添える。美しく長い銀糸を夜風に靡かせながら、ラーツィアはガーネットのような瞳を闇に走らせた。中空にゆらゆらと漂う仄暗い光の塊がその視界に現れる。
「こんなに集まっているとはね。」
人魂を見つめながら呟く。輪の理に還らず、死してなお現世を漂う魂たち。本来の輝きを失った彼らは不気味に明滅していた。
まだらな石畳を叩きながら進み、傷んだ家の少し手前で足を止める。ダークブラウンの扉を睨みつけるようにしながら右腕を軽く振った。虚空から一振りの大鎌が現れ、吸いつくようにラーツィアの手に収まる。空の光を受けて輝く刃はまるで三日月のようだ。そして、大鎌を手に立つ漆黒の姿はまさに伝承として語られる死神そのもの。
「……還りなさい。」
桜色の唇から、凛とした声が零れた。マントを翻し、小柄な体に不釣り合いな大鎌をまるで舞うようにして振るう。黒い月を描きながら刃が空を裂く。途端、耳を塞ぎたくなる叫びがあたりを覆った。長く尾を引く不協和音に顔をしかめる。刃が裂いた多彩な光は細やかな塵となって星空へと溶けていく。最後ばかりは美しい、天の河のような光景を眺めながらラーツィアは小さく溜息をついた。
何度繰り返しても、あの断末魔には慣れない。
それでもまだ立ち去る訳にはいかなかった。外を漂っているものなどはただ引き寄せられたに過ぎない。本当の標的はこの家の中だから。
甲高い音を立てる扉を開けて中へ入る。ひゅうひゅうと隙間風の、嘆きのような音が客人を迎えた。ガラクタの散らかる寒々とした廊下を慎重に歩いていく。小さな家では気配を探るまでも無く、標的はすぐに見つかった。玄関から数歩、僅かに開いた扉から漏れ出す薄橙の光。人が見れば燭台の光に思えるがラーツィアの瞳はごまかせない。暖かな色の光に混ざった濁り。狩るべきその証が真紅の虹彩に映る。
細く開いた扉の隙間からラーツィアはそっと部屋を覗き込んだ。覗き込んで目を瞠る。白い手がぎゅうと鎌の柄を握った。殺風景な部屋の中には向き合うように二つの人影があった。今宵の標的たる薄橙の光を放つ幼子と、ラーツィアと同じ年頃の育ちのよさそうな黒髪の少年。錆びついた燭台の蝋燭の炎が、壁に一人分の影を映し出していた。通常なら認識出来無い姿が見えているのだろう、優しげに撓められた深い水底のような青の瞳は真っ直ぐに幼子へ向けられている。
まずい。慌ててラーツィアは体ごとぶつかる様にして扉を押した。“見える”人間や興味を持つ人間は概して彼らに目を付けられやすい。何かが起きる前にと身体が急く。音を立てて扉を開け放つとほぼ同時に、少年の手が幼子の頭に伸びた。撫でるように骨の目立ち始めた手が動く。嬉しそうに歪む、朧げな幼子の顔。何事か告げるように口元が動いて、輪郭が静かに解けた。幼子の姿を構成していた光が四散して螺旋を描き天井――その先の天へと昇っていく。それを寂しげな笑顔で見送りながら、少年の唇は音を紡ぎ始めた。高めのテナーがキラキラとした残滓の僅かに残る小さな部屋に響き、柔らかな旋律が夜気に溶け込んでいく。悼むように、祈るように、奏でられる歌を知る者は少年以外に居なかったが、きっと鎮魂の調べなのだろう。儚く切ない音色は風と混ざって、彼方へも届くかのようだった。
「……御霊送り……?」
歌声を聴きながら、開け放たれた扉の前でラーツィアは呆然と呟いた。勢い良く飛び込んだはいいが、その直後に目の前で繰り広げられた光景にそれ以上足が動かない。あんなに優しい還し方なんて。跡形も無く消えてしまった幼子の笑みが目に焼き付いている。耳をつく断末魔など残しもせず、救われたかのように消え去った。そんなことが出来る者など、物語でしか知らない。遥か昔に居なくなったと語られる、死神とは似て非なる力を持ち、それ故に時に対立した一族。
立ちつくすラーツィアの見つめる中で、歌を終えた少年がゆっくりと身体を動かした。深青がラーツィアの方を向く。正反対の色をした瞳が合った。それも一瞬で、少年は横を通り抜け部屋を出て行こうとする。ラーツィアは慌てて手を伸ばした。
「待って、貴方は……っ!?」
何者なのか。引き止めて問おうと腕を掴む。掴んだその瞬間、まるでそれを待っていたかのようにラーツィアの瞳に光が映り、言葉が止まる。かっちり着込んだ濃藍のベストの奥底、心があるとされる場所に輝く純白。曇り一つない眩い生命の煌めきを放つ魂に、しかし驚いたのはそこではない。純粋なまでの光に複雑に絡む、透明な鎖。少年の魂は細いガラス細工のような鎖できつく縛り付けられていた。生者には決して存在しないそれはまた古い古い呪だ。忘れ去られたはずの死者を動かす禁術。少し低いが暖かい体温を持つ身体は、何者かに“生かされて”いた。
「離してくれないかな、死神さん。」
掴まれた腕に一目くれて、視線は再びラーツィアの顔へと移る。呼びかけにさらに驚愕に染まる様子を見ただろうに、対応は淡々としたものだ。
「貴方は……何、なの?」
言葉の割に振り解く素振りすら見せないのをいいことに掴む力を強めて、今度こそラーツィアは問うた。その力も状態も、何もかもが謎だらけだった。
「……見えたんだろ?」
解ったのではないのか、言外にそう告げている。聞き間違いか例えか、先程の呼びかけはそのどちらでも無かったようだ。信じられないことに少年はラーツィアの正体を知っている。気付いていながら、青く澄んだ瞳に僅かに警戒を滲ませながらも少年は動かなかった。この場を逃れる必要が無いのか、逃れても無駄だと思っているのだろうか。視線を下げて、ラーツィアは掴む手を見つめた。細い指先が白いシャツに食い込んで、無数の皺を刻んでいる。薄い布を挟んだ肌の感触は確かに生きた人間のそれなのに、目の前の少年が先程見た魂のままの存在であるというのなら。
「……誰が、そうしたの。」
問いかけは微かに揺れていた。一体誰が少年を現世に縛り付けているというのか。禁術をかけられた死者は操られているのが常とされているのに、その様子も無い。ラーツィアは困惑していた。死神としての自分は狩るべきと訴えかけるのに、心のどこかでそれに対する引っ掛かりを覚える。大鎌を持つ片手に縋る様に力を込めた。心音が響いてうるさい。
「話して、それでどうする。」
「貴方を還して、それからそいつを探すわ。」
言葉と共に手を離し、黒の柄に添える。迷いを断ち切る様に一気に振り上げた。それでも、少年の首元で止まった刃は心情を映すかの如くに震える。振るわれた黒刃を眺める少年は意外そうにその瞳を小さく見開いた。身の内の光に絡む鎖が、奪わせないと言わんばかりに戒めのきつさを増していく。言ったはいいが他の魂のように狩る事が出来るのだろうか。形だけは職務を遂行しようとしながらも、ラーツィアの脳裏は疑問で満ちている。なにしろこんな存在と出会ったことは一度も無い。
「……俺から全てを奪った男。」
位置の定まらぬ刃が静止する。見れば艶やかな黒金の背に細長い指を持つ手が添えられていた。地を這うような声。感情の薄かった少年の顔に濃い影がかかる。ふるりと、対峙するラーツィアの背が寒さで震える。冷たい憎悪が死神の身体を吹き抜けて遼遠の誰かへと送られていた。
「そんな男が、どうして貴方を。」
何をしたのかは知らないが、態々自分を追うとわかっている者を“生かし”たりするだろうか。問えば少年はコトリと首を傾げた。その拍子に刃が薄い皮を食みそうになる。それを気にもせず、試したかったのだろうと少年は呟いた。死神の鎌に肉体を傷つける力は無いとはいえ、まるで恐怖を感じていないかのような姿は異様にすら見える。
「野放しにはできない。『あれ』は取り戻さなくちゃいけない。……だからまだ、“死ねない”よ死神さん。」
決然と言って、少年は笑った。水底を切り取った瞳は昏く、けれども誰にも動かせない光が秘められている。ああ駄目だわ。ラーツィアは独り言ちた。緩慢に大鎌が少年の首元から離れ下ろされていく。この魂に刃は振るえない、そんなことを思ったのは初めてだった。
「……探し物は、そいつとそれなの?」
「……あぁ。」
問いかけに僅かに間を開けて短い返答。存外あっさりと鎌が下されたためだろうか、少年は虚を衝かれたように瞳を瞬かせていた。昏さが薄れ穏やかになった青玉を見つめ、ラーツィアは少年を促す。
「禁術書だよ。一族……御霊送りの過ちの結晶だ。」
視線を下げて少年は言った。奪われたその時の事を思い返しているのだろうか、強く握りしめた拳が己を傷つけてしまっている。御霊送り。少年がそう名乗ったことに、ラーツィアはもう驚かなかった。ただ、やはりそうかと受け入れる。人の身にして魂の専門家なんて彼らしか存在するはずも無かった。細々と生き続けてきたのだろう。
ふうと一つ、呼吸が落ちた。
「行きなさい。」
扉の前に立ちふさがる様にして在ったラーツィアが身体を横にずらす。良いのかと尋ねてくる視線に頷いた。困惑顔で足を止める少年に向かい、言葉を続ける。
「その代り、条件が二つあるわ。」
「……何だ?」
象徴たる大鎌を消し、握りしめた拳を取る。開かせた掌には真っ赤な血が滲んでいた。手を重ねればとくとくという鼓動が伝わる。不思議な感覚だった。相反すべき存在がこうして手と手を触れ合わせている。
「全てが終わったらちゃんと天に還ること。それから……私も連れていくこと。」
「……は……?」
「だって、見つけたからには貴方を放っておくわけにはいかないもの。」
「いや……まぁそれは……そうかもしれないけど。」
告げられた条件、おそらくは二つ目のそれを聞いて、少年は遠慮したいと言いたげに後ずさる。それを察したラーツィアは逃がさないとばかりににっこり笑って重ねた手を握った。手を取られた少年は痛みに一瞬顔を顰め、反論しようとして口ごもる。理屈はわかるけどなんだか納得いかない、そんな表情に端正な顔が歪んでいた。
「それに、貴方が追う相手が禁術を使っているのなら私にも追う義務があるわ。」
世界を巡る、命の輪の番人として。重く響いた言の葉に、少年の身体が抵抗を止める。大仰に吐き出される溜息。観念したかのようにくしゃりと夜色の髪をかき混ぜた。
「わかった、それでいい。」
不承不承ながらも引き出された承諾を聞いて、ラーツィアは握る手を離した。行こう、と言って扉の方へと数歩進み、ふと気づいたかのように振り返る。
「……そういえばどうして、私が死神だってわかったの?」
「外から悲鳴が聞こえてきたから。それと、その大鎌。」
疑問に思っていたことを一つ尋ねれば、当然とばかりの顔をして返される。正体を隠していたわけではないし、言われてみればその通り。相手も“こちら”寄りの存在であることを考えれば特別驚く事でもないのかもしれない。聞いてしまったことを少しだけ後悔して、それでも気を取り直してもう一つ問いかける。
「そ、そう……。あ、それから、私はラーツィア=エルルキア。君の名前は?」
「……エスティード。エスティード=リチュエルだ。」
「エスティード……エスティね、よろしく。」
口の中で転がすように名前を呼んで微笑む。企みの無い笑みに、エスティードの顔もぎこちないながら和らいだ。名乗り終えたところで、今度こそラーツィアが灰色の部屋を出て行く。それから少し遅れて、追いかけるようにしてエスティードが扉をくぐる。数歩前を行く小柄なモノトーンの背中を見つめて呟いた。
「……ありがとう、死神さん。」
それは僅かな距離ですら越えられぬ小さな声。安堵したようにゆっくりと一度、瞳が閉じられた。そして寂しさや後悔や感謝、様々な感情が綯交ぜになった笑みが色の薄い頬に浮かぶ。誓う様に、胸元のループタイを飾る色褪せた青石をそっと握りしめる。
「ねえ、何か言った?」
「いや、何も。」
「そう?ならいいけど……。」
しかしそれも一瞬、零れた声に気付いてラーツィアが振り返った時には儚い笑みは消え去り、握る手も重力に従い落ちる。聞こえた気がしたんだけどな、と首を捻るラーツィアの隣を抜けて、エスティードは外へ繋がる扉へとその手を掛けた。ギィギィと苦しげな音を立ててダークブラウンの扉が開いていく。二人は眩しげに瞳を細めた。扉の向こう、寂れた佇まいを見せる古い家々の遥か彼方。白んだ山々の稜線が、静かに夜明けを告げていた。