プロローグ
その日、“世界”は終わりを告げた。
深い山の奥、音も無く振り積もる雪が家々を染め上げる白の里。朝日に照らされ美しく輝くはずの家並みを、鮮紅が呑み込んでいく。厚く積もった雪をも消し去る劫火に包まれる里にもはや生者の気配はない。炎と風が荒涼たる音を響かせる中、最後かもしれぬ灯が小さな洞の中で消え果ようとしていた。
じわり、目の前の白雪が染め上げられる姿を少年は冷えていく意識の中で見ていた。崩れ落ちた身体にはもう遠く聞こえる炎が家を焼いて弾ける音に振り向くだけの力も残っていない。ひたひたと忍び寄る影にただ、血の滲む唇を噛み締める。
しゃり。地に伏す少年の傍らで、踏まれた雪が鳴った。紅白で彩られていた少年の視界に夜闇のような黒が映る。早足で歩むそれを、少年は残る力を振り絞って目で追った。見覚えの無い男の姿に瞳に影が落ちる。あぁ、皆はもう。一筋涙を伝わせる少年に目もくれず、漆黒を身に纏った男は洞の最奥に設けられた祭壇を一段一段上っていく。その頂上の台座の前で、震える手が懐からペンダントを取り出した。シンプルな鎖の先には硬貨大の丸い宝玉が下がっている。両脇に置かれた松明の火を反射して、青い石が輝いた。
(……父さん。)
光の消えかけた瞳で、少年は食い入るようにその光景を見つめた。痛みすら感じない指先が傍らに落ちた剣を探して地面を掻く。“何に代えても守れ”。少年の脳裏に反響する父の声。けれど、汚されゆく雪と同じ色に染まった身体は無情にも言う事を聞かない。凍った金属の塊をようやく探り当てても、それを支えに立つことすら。
少年が足掻いている間にも、男はゆっくりと宝玉を祭壇へと近づけていく。中央の窪みに嵌め込むと、清く輝いていた宝玉が禍々しい光を放ち始めた。光が弾け少年の瞳を灼く。洞を満たす蒼光の後、祭壇に一冊の書物が現れた。
「ようやくだ……ようやく手に入れた!」
深い藍色の古ぼけた書を手に男は哄笑した。厚い壁越しのような感覚でその声を聞く。“里の宝”の一大事を目の当たりにしても、もう僅かに指先を動かすことすらできなくなっていた。瞳だけが一挙一動を見逃すまいとひたむきに男を追いかける。書を手に入れた男は悠然とした足取りで祭壇を下りてゆく。堪えきれぬ興奮で空を揺らしながら、漆黒が再び少年へと近づいた。霞む視界に男の顔が入り込む。フードから零れる茶の髪、切れ長の瞳に高い鼻。辛うじて形が認識できたそれらも、立ち込めゆく霧の彼方に消えていく。どこか懐かしい真白の底へ落ちていきながら、歓喜に満ちたあの顔だけは忘れまいと強く、強く誓った。
誰一人居なくなった雪の里。燃え盛る炎も小さくなったその場所に、小さな光が現れた。里中から生まれ出た蛍のような光は、ふわりふわりと宙を漂い一点へと向かってゆく。美しい帯を描きながら、意思を持つかのように。無数の光は祭壇の洞へ集い、倒れ伏す少年を囲んで乱舞する。薄暗い洞は優しい光に照らされ、吹き込み積もった雪もそれを受けて淡く煌いた。狂喜の去った空間で、夜毎に踊る妖精たちのような光はやがてゆっくりと少年に向かい収束する。慈しむようにその冷えた身体を撫で、光の雨が横たわる身へと浸透していった。一つ一つと吸い込まれるように消えていき、再び洞は闇に包まれる。後にはただ、寂しげな風の音だけが残っていた。