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宮部みゆき『英雄の書』における退治されない「魔王」のパスティーシュと「アパルトヘイト」の虚構性

作者: 野口読多

 株式会社レベルファイブ社長の日野晃博が脚本に携わった作品は、その多くがいわゆるヲタク系のネットユーザー達の顰蹙を買っており、今でもよく槍玉にあげられたりすることがある。卑近の例では(2013年5月現在)、継承されてきた衣鉢としてのガンダムサーガ――『機動戦士ガンダムAGE』――の失速には眼をおおいたくなるものがあり、同サーガのファンはソーシャルサイト上にて日野を厳しくこき下ろしていた(といっても、同作品を肯定的に見ているファンも多いことはたしかで、あくまで過剰な誹謗中傷が多かっただけであり、それをもってファンの総意とする意見には私も賛同しかねるところがある。また日野個人を攻撃する意味でこのような文言から本論を書き始めたわけではないことを表明するべく、あわせてレベルファイブ作品である『ダンボール戦機』や『イナズマイレブン』はその後のメディアミックス展開を含めて概ね成功をおさめていることをここに申し述べておこう)。

 ところでネットユーザー達は、一年のしめくくりとしてその年に販売されたゲームの中でどれが図抜けて不良作(俗にいう「クソゲー」)であるかを品隲する「クソゲー・オブ・ザ・イヤー」なるものを膝つめて合議しているそうだが、ある年の下馬評に日野が制作に携わった作品が上せられたことがあった。『ローグギャラクシー』というタイトルの作品だ。このゲームは、壮大な宇宙銀河といくつかの惑星を舞台にしており、いかにもその筋のマニアに受けそうな設定なのだが、ダンジョンの背景が進めども変わらない等の由々しき問題があったために、後にディレクターズカット版の販売という形で修正を余儀なくされた。結果としてこの作品には二重の労力がかかり、そのために制作陣が火をふくような思いをしなければならなかったのだが、これはもう一人、別の意味でこの『ローグギャラクシー』というゲーム内に流れるストーリー(物語内容)に火をふいた人物がいた。誰あろう、業界きってのゲーマーであるらしい宮部みゆきだ。彼女はその後、「お口直し」(出典はWikipedia各項による)と称して『バイオハザード』等有名どころのゲームをプレイしなければならなかったそうだが、このことから彼女がいかにゲーム好きであるかが窺い知れよう。

 自身の長編小説『英雄の書』においても、そういったゲーム的想像力が色濃く反映されており、たとえば八十年代の末に社会現象としてその発売日に長蛇の列がつくられたことで有名な『ドラゴンクエスト』シリーズが得意とする物語言説と、ほぼ同様の路線が敷かれていることに気づける(類型でいえば、「ドラクエ」と似た物語原型を有する『ファイナルファンタジー』シリーズも、ドラクエと並び称されるほど長く愛顧されており、「ドラクエ」「FF」の二作品が王道としてほとんどこの手のゲームが展開していく物語の素地を形成していったと言っても過言ではあるまい)。同シリーズはナンバリングやタイトルを少し変えなどして、似たような物語を繰り返しながらも決してプレイヤー(顧客)を飽きさせることなく、最新版の発売のたびに嘖々たる好評を博している。そのアウトラインは、主人公の勇者が戦士や僧侶といった「職業」の異なる仲間を集めて、王国民を脅かす魔物とその軍団を統べる魔王を討伐すべく冒険の旅に出る、というもので、仔細は異なれどだいたいこのような定型のもとにシリーズは毎回旅路の朝をむかえている。そうしてこのような定型は「ありきたり」「よくある」という冠詞の付された王道ものとして次第に認知されていき、近年ではその王道もののゆえに生じる「陳腐さ」を逆手にとった橙乃ままれによるライトノベル作品『まおゆう――魔王勇者』も著された。これは型にはまった勇者と魔王の物語を明瞭な勧善懲悪ものとして安易な消費の誘発をさせずに、これまでゲームでは完全に無視されてきた経済と軍需複合産業との利害のプリンシプル、それから異種族間との血で血を洗う抗争を幾度も繰り返した末に生じる葛藤やドラマツルギーをまるごとファンタジー世界に持ち込み、単純な構図だった物語言説の鋳型に流動的な身体を肉づけして話題を呼んだ作品で、後にアニメ化もされた(「流動的身体」というタームは私が今勝手にこねくりあげた言葉だが、マンガ表現における身体表象は揺れ動くことがあるとした言説自体は、山田夏樹『ロボットと〈日本〉――近現代文学、戦後マンガにおける人工的身体の表象分析』に明るいので、ぜひ参照されたし)。そういった「陳腐さ」を逆手に取る手法というのがライトノベルやネット上での素人投稿による「SS」において確立されているのに対し、世間的認知度でいえばそういった日陰のカルチャーより目立っているエンターテイメント小説という分野ではあまりなされないそのトートロジカルな反復とゲーム的想像力のパスティーシュを試みた『英雄の書』では、物語内を主人公の正面から吹き付ける風として横断する黒幕の陰謀等は常に子供勇者・ユーリ(森崎友理子)の傍らにいる大人の誰かに付きまとう問題として処理され、身も蓋もない言い方をすれば、主人公であり勇者である筈のロールを担わされた彼女は本作において、いかなる問題をも快刀乱麻を断つようにはすっぱり解決をしていない(具体的には、上巻P348で料金支払いのシステムが「法衣」という非現実的ガジェットを纏っているがために捨象されているし、「周囲の大人たちが、ユーリには知らせないように計らってくれていた。またユーリも――友理子もそのころはそれでよかった」(上巻P335)と、オルキャストとなったからこそ、やっと厳しい現実と向き合えているように読める描写がある)。それどころか、これは主人公が最低限自らの手でやりとげねばならないタスクだと思うのだが、主人公が旅立つ動機ともなった魔王が、『英雄の書』においてついぞ駆逐されおおせなかったのである。これはある意味、「勇者」と「魔王」の構図を含むストーリーとしては物語の消費者に対する裏切りのようにも読めるのだが、本論においては宮部みゆきがなぜ『英雄の書』と称してゲーム的想像力の色濃く反映され、半ば主人公の勝利が自明の、所与のものとして約束されているような設定を付与しながらも、このような不完全燃焼ぎみなきらいさえあるエンターエイメントを世に送り出そうと思ったか。そういったことに焦点をしぼって、おおよその狙いを周辺の整理によって明らかにしようという試みのもとに書かれたものである。あらかじめ答えを言っておくと、厳しい現実の情報こそが「英雄」という言葉の陰に隠れた退治すべき「魔王」であったために、オルキャストのユーリであれば耐えられる現実の「英雄」も、オルキャストがひっきりなしに現れる他のリージョンにおいては、「現実」に対する「友理子」が「子供」でしかなかったのと同様、まったく相手にならないどころか、そのせいで仲間からも置きざりにされる勇者なのである。

 まず、『英雄の書』の冒頭を飾る念歌から見ていきたい。この念歌というのは一見して調った文語体で書かれているように思えるが、さにあらず、文学慣れしたディレッタントやその筋のディシプリンがお読みになれば明らかかと思うが、この宮部の文語体、どこかおかしい。とはいえ文章自体に憾みがあるわけでもないし、意味が伝わらないほどに不十分というでもない。文章は精密で、そこはプロの小説家の腕前とあって天晴れと言わざるをえないのだが、その文語文がどこか中途半端なのだ。それは宮部みゆきが所詮は口語の世界に浸かりきった現代人であるから、などという推測はこの場合あたらない。それはプロとしての意識が――素人の投稿した原稿を評価する立場にある彼女のプライドが――常に彼女に適正な文章を書かせるからであるが、しかし、ではなにゆえ念歌は見る人が見れば違和感を禁じ得ない文語チックな文体で書き表されているのか……その答えは、けだし彼女の包まれている物語、ゲーム的想像力に視程を合わせたものであるからといえよう。

 いま市場に出回っている財のうち、ゲームにカテゴライズされている商品の中で、こうした王道ものの看板を掲げたものがいくつあるかなどということは、正直誰も数えたことがないから具体的な数値は出てこないと思う。しかしその数は膨大な量に違いなく、絶版されたものを含めたりすれば、際限が無いようにも思われる。その中でこの念歌のように、プロローグの文が宮部の書いたような文体で書き始められている物語はいくつかあるものと推測される。実際にいくつかプレイしてみて確かめてみれば早いのだが、それは生粋のゲーマーに任せればいいことなので本論では具体的な例を一つ一つ取り上げることはせず、このような文語体チックな文語体はゲームから派生して、既にマンガやライトノベルなどのヲタク的領域で幅広いシミュラークルを形成していることに注目していきたい。すなわち、たとえば文学的な趣味を持った若者がいたとして、この念歌をひとたび読めば「宮部みゆきは小説家のクセして、この程度の文語しか書けないのか」と慨嘆するのかもしれないが、同年代の今度はヲタクが一読すれば、特に違和感なくその独特な文語体になじめてしまうのである。この現実を鑑みるに、現代流の文語チックな文語――イミテーションものとしての怪しげな文語体――は、既に一大マーケットを築きあげていきつつあるヲタク文化の範疇として、立派にカテゴライズされているヲタク要素と看倣すことができる。現に本編においても、友理子は様々な感情・所感を述べたり表したりする際、サブカルチャー的知識の中から類似のケースを引っぱり出し、それに譬えたりしていることがしばしば散見される――初めてアジュと声を交わしたシーンではアジュのことを精霊に重ねたうえで「映画とかに出てくるから」(上巻P55)と言ったり、王様といえば王冠とマントこそふさわしいというイメージの根拠として「マンガや映画、小説」(上巻P144)の理解を応用したり、魔方陣から現れた分身を見て「お兄ちゃんが借りてきたDⅤDで、そういうSF映画を観たことを思い出し」(上巻P160)たり、老無名僧から領域リージョンの説明を受けている際にも「映画とか? コミックとか? ゲームとか?」(上巻P205)と思っていたり、ざっとページをぱらぱらめくってみただけでもちらほら見つかる――。実際、9・11テロの際、貿易センタービルの倒壊するさまを目の当たりにした一般人がマイクを向けられて「まるでハリウッド映画を観ているようだ」と漏らしている例もあるうえに、湾岸戦争を通してバーチャルゲームが批判された際などには、大塚英志が『サブカルチャー反戦論』において「そう批判した人々自身にとって、何よりも戦争はテレビゲームのように感じられてしま」ったからだという指摘をしていることからも、サブカルチャー的な想像力をたよりに「現実」を理解しようと努める友理子の認識が、まさに現実の人間の思考を反映したものであることが窺えよう。

 さて、このように本作において主人公の考え方や物語の進行自体が多分にサブカルチャー的要素をひっかき集めたようであるのを明らかにしたが、ではその要素の集合体ともいえる念歌の内容がいったいどのような意味の文言で書かれているか。いよいよ本文に切り込んだ論を展開していこう。

 念歌にかぎらず、この『英雄の書』全体の読解を、エンターテイメントと切り離して論述することを難しくしている要因の一つは、なんといってもクオーテーションマークに挟まれた専門用語のオンパレードだろう。念歌は小説を冒頭から読み始めようとする読者に対し、まず文語チックな文体でミーハーな層を面食らわせた後に、さっぱり意味のわからない「無名の地」「紡ぐ者」「黄衣の王」といったタームが理解をややこしくさせる躓き石となっていきなり横たわっている。だが私がここで語る材料として取り上げたいのは、クオーテーションマークによって作者自身によっても強調されたそれら専門用語の数々ではなく、あえて括弧にくくられていない「善良なる人びと」(上巻P8)に的を絞ろうと思う。この善良なる人々というのがいったいどのような人々を指すのか。これがわからずして、おそらくこの『英雄の書』を読めたと思っている読者がいるとしたなら、いまここではっきり言おう、あなたは本書をそこにあるエンターテイメント性だけしか需要できていない。宮部みゆきは、本書においてまさに人々が本来そうあることを望んでいるのであり、間違っても私のようにかような読みを広げてほしくないというメッセージがここにこめられているということに気づいていないのだから。だからこそ念歌中には「“無名の地”の物語を、人に問わず。/“無名の地”の言葉を、その口唇にのぼらせず」(同)とあるのであり、その意味で私は「約定」を違えた「咎人」といえるのであるが、宮部みゆきは他ならぬ自分たち小説家こそが咎人であると、ここで自虐してもいる。“紡ぐ者”とは、クリエイターをさすのであり、それが咎人とされるということは、このような本を書くことによって、上記した善良なる人々に「本」というものを誤解させる罪を生むからである。たとえば善良なる人々は、「家庭用洗剤の正しい使い方」というハウツー本も「本」ととらえるわけだが、本作においてそれは森崎大樹によって燃やされているのである(下巻P389)。坂口恭平が『ゼロからはじめる都市型狩猟・採集生活』や『独立国家のつくりかた』などの奇抜なタイトルでそういったハウツー本・ビジネス書ばかりが売れる――逆をいえば、「善良なる人々」がそういった本しか買っていない――状況を皮肉っていることを思えば、本を試験的に燃やすという行為にはそういった物語を越えた作者の狙いがあったように思う。なぜなら、そもそも「善良なる人々」に「本」というものはこういうものだと誤解させる原因を作ったのが、他ならぬ自分達にあるという意識が宮部の深層には少なからず存在したからではなかろうか。それは、「書物には、人間を眠りに導く力が」(上巻P114)あると説明した後で、世相を反映した存在である友理子は「面白い本なら、寝ないもん」(同)と答えているあたりに、宮部自身がこのようなエンターテイメント小説を書く意図が透けて見えるし、「寝かせないための面白い本」を作家が書かなければならないというのは、逆説的にそれをうながす「善良なる人々」の愚かさを示唆するものでもあるのだから。思い返せば、キリクが「エルムの書」のオルタイオスに影響をうけてヘイトランドに災いをもたらすという構図は、こういった現代日本の貧困な想像力に傾かざるをえない状況のおそろしさを暗にほのめかしているように読める。

 本論においては、極力作中で多用される用語の解説は避けて通りたいのだが、あえてそれを枉げて、ここで無名の地というタームについて整理していこうと思う。というのも、念歌にかぎらず、『英雄の書』全編を文学的に理解していこうとすると、どうしてもその表現上、無名の地の実態を無名のままにしておくわけにはいかなくなる。そう、私はこの『英雄の書』という小説を単なるエンターテイメントノベルとして消費させ続けるのではなく、立派な(か、どうかは議論が分かれるところだろうが)文学として少しでも世間に認知させるべく、拙文を著わそうと決心したのである。

 話は一旦それるが、文学にはそれを文学たらしめる定義があると私は考える。もちろんあまり迂闊なことを言ってしまうと、文学研究を本職とされている方々からお叱りをこうむってしまうだろうが、それをおそれずにあえて言わせてもらうと、私はこう考えずには――定義づけずには――いられない。すなわち小説の中で、くるくると回転する何かが出てくればそれは文学であると。たとえば、多分にサブカルチャー的要素が盛り込まれているために読解が置き去りにされている感がある、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』なぞは私の偏頗な定義によれば明らかな文学で、主人公の一人であるキクの頭の中に「金属の巨大な回転体」が存在し、それが唸りをあげながら彼を衝き動かすその描き方は、なにか巨大なコリオグラファーによって踊らされている一個の人間――人間にすらなりそこねたかのような、未熟な生き物の一人――のカリカチュアルな描出という風に読める。回転する金属がこのような作用を小説全体に及ぼす徴候がみとめられれば、私はそれを、どんなに低俗な内容を含んでいたとしても、純粋な文学として受容するよう普段から心がけて作品を読んでいる。さて、『英雄の書』を読んでみよう。本作には果たして、「金属の回転体」に類するようなくるくる回るものがあるだろうかと探してみれば、真っ先に見つかるのが無名の地で無名僧にて延々と回され続ける「咎の大輪」だ。これは文庫本の下巻表紙イラストでも窺えるが、咎の大輪以外にも私の文学的なるものを探知する嗅覚が敏感に察知した部分がある。それは本作における「英雄」を、魔王としてではなく、資本の論理と仮定した場合に姿を見せる円環だ。「〝英雄〟が戦争を起こすの? あたしの知ってる英雄は、戦争を終わらせた人たちだよ」(上巻P72~73)という疑義を発する友理子の問いに、アジュは「始まりと終わりは同じものなのさ、嬢ちゃん。頭と尾っぽがつながってる」(上巻P73)と応じる。このセリフは明らかにウロボロス的なループを際限もなく繰り広げる戦争と経済の論理をあてこすった言い方と読めるうえに、私の文学の定義にもかなっている。「英雄」というのは聞こえがよい言葉であるから、多くの人が疑いもなく、たとえば本作の友理子のように、「ヒーローだ。とても偉くて強い人のことだ。歴史上の人物ならば、立派なことをした人だ。スポーツ選手ならば、記録に残る活躍をした人だ。そして、だいたいは物語の主人公だ」(上巻P63)という具合に、そこにある正義の絶対性を信じ込むだろう――ちょうど、否定の材料が提示されない安定性を長い歴史のうちに約束されてしまった資本主義経済のようなものだ、それは――。少なくとも帝国主義以降、戦争というものは国家の利害によって引き起こされており、都合のいい大義名分さえととのえば、いつでも開戦ののろしをあげることができる。つまり、近代国家において戦争というものは、人と人との理解の不通を発端とするというよりも、むしろ個人を無視した巨大な共同体同士の軋轢や摩擦を端緒とした衝突によるところが大きい。そして、それを具体的な形で下支えしていくのが、軍需複合という名の経済原理であることに眼を向けないわけにはいかないだろう。この経済のルールは、長年の常態化のうちに、人々の思考の根幹に「そこにあるのが自然なもの」として認識されるゆえに、その罪悪を指摘することが難しいような「正義」とされてしまっているのだが、この「正義=英雄」こそが、戦争を呼ぶと同時に終結に導くものであるとされていることは、わざわざ指摘するまでもない厳然たる事実だろう。つまり「善良なる人びと」は、本作の筋にあるとおり「英雄」の裏面に潜む負の面を特に意識もせずに、今日を暮らしているということだ。尤も本作において、戦とはなにも戦争ばかりをさすものでないという説明もあるのだから、「英雄」に資本を見るというのはやや飛躍しすぎた論なのかもしれない。しかし、「英雄」の裏でもあり表でもあると表現される「黄衣の王」が、「取り憑かれた人たちは、みんな戦争を起こす」(上巻P148)とされているように、英雄が戦争を呼ぶというところに、それを資本主義のような「当たり前」と読むこともあながち間違いではないのでは、と思えてしまうようなガジェットが、本作の序盤に限定して登場してくるのである。しかもそれは、「使途」という言葉も知らないようなほんの子供にすぎない友理子に、例の専門用語の数々を駆使して彼女を物語世界へいざなう手引きをしてもいるのだ……誰あろう、赤い本のアジュだ。赤い本、と聞くとほとんどの人がマルキシズムや社会主義的なものを想起するのではないだろうか。中国文化を研究する子安加余子は、中国という国の在り方を知るうえで、やはりどうしても社会主義というものを知らねばなるまいと思い、ソ連関係の本も含めてそういった文献を渉猟していたそうだが、ある日父親に見つかった際には「お前はアカに染まったのか!」とおおいに大喝されたそうである(本人の談)。「アカ」という言葉、ないしそれが表す色自体が、本作において英雄との対比の意味で活用されているのではなかろうか。仮に資本主義という言葉の対義語を単純に社会主義と理解した場合、勇者ユーリの戦うべき相手が資本とすれば、彼女を手ほどきするのはカール・マルクス的な存在でなければならない。アジュが「赤い本」なのは、単純に他の賢者との色分けの都合上生じた偶然であったかもしれないが、本作において彼(?)が「若い本」(あくまでミノチの図書室内にかぎっての基準ではあるが)と説明されるあたりに、すでに時代の変遷による風化を受け、古きものとなりつつある商業主義に対するアンチテーゼと読めるのではないか。そうしてこの小説が『まおゆう』のように経済の原理ときってもきれない関係で結ばれていることのなによりの証左となりうる箇所がある。それは無味乾燥とした回廊の描写のなかで「漢字の発見」としてひときわ他のシーンより強調されて書かれているのだ。友理子はわからないものだらけの中で突如として「円」という漢字を見つけて小学生らしくはしゃぎだすわけだが、「銀行のロビーにだって、こんな装飾品はない」(上巻P185)と、「円」はお金の単位を表すのが「当たり前」と認識していたので、「輪という意味もございましょう」(同)と無名僧に指摘され、「自分で自分が恥ずかし」(上巻P186)くなる。「円」といえば、本来の意味では「輪」をさすのであり、極論だがこの言葉が出てくるだけで私は文学だと思って深読みに走りがちになるのだが、ここで重要なのは、その文学的な「輪=サークル」が、経済的な「円」と重ねあわされてしまっているということである。つまり、宮部みゆきにおいて文学とは、「輪」でもあり、「円」でもあると読めてしまうのだ。言葉のエティモロジーをさぐって今定着している意味との齟齬をさりげなくあばいて「当たり前」のおかしさを浮き彫りにしていく手法は近年では西尾維新などの作家にも見られるが、ここにおいても友理子が「円」と読めばお金のことだと早合点してしまうのは、友理子に特殊なケースではなく――なんとなれば、友理子は世相を反射した存在と読めるのだ――、誰にでも起こりうることなのではないだろうか。咎の大輪が巻き取るサークルのうちには、そういったありふれた日常もあるのだということを思い出せば、友理子という(我々からしてみれば)虚構の存在に、このような形で現実性を付与するという行為の裏には、やはり「現実」に流れる物語の「往きて還り着くところ」(上巻P203)をうらなっているようにも感じられる。つまり、「現実」と信じ込まされている物語への伏線となっているかのように、本作は読めるのだ。そのように読んでいくと、「英雄」という言葉は正しいと刷り込まされる認識、無矛盾の正義をそこに読み取れる象徴であると同時に、その「完全な物語」を疑いもせずにてんから呑み込んでしまう「善良なる人びと」の表象が潜んでいるともとれるのだ。

 さて、ここで閑話休題して、話を無名の地に戻そう。無名の地とは本文においては物語が生まれ、回収される場所と説明されるのであるが、そこは以下の引用のような童話性とともに語られる。





 童話のなかの町。

 絵本に出てくる建物。

 実在はしないけれど、空想のなかに在るもの。

 お話のなかに出てくる、どこでもない場所。

 どこでもない「町」。

 ……(中略)……

 イタズラ好きな巨人の子供が、巨人のお父さんに手伝ってもらって造りあげた、不思議で愉快な箱庭みたいな「町」。(上巻P191~192)





以上の引用箇所は、無名の地というよりもそこにある「万書殿」内部の情景なのだが、ここで友理子は「絵本」「童話」「巨人」と、童話的理解をはっきりと彼女の「現実」に重ねている。このことは今まで私が述べてきた世相の反射の反復、というよりも、友理子が子供であることの強調と読んだ方が自然だろう。それというのも、この直後「〝印を戴く者〟は、多くの場合、幼子」(上巻P200)という説明がなされるからであり、その前段階としてのプロセス――俗にいう「伏線」――であったわけだが、ではなぜ本作において「子供」であることが一部特権的な扱いを受けているのであろうか。これを理解していくうえで重要なカギとなるモチーフがイーハトーヴにあると私は考える。たとえば宮沢賢治は、政治活動の一環として児童文学を原稿用紙に書き殴る日々を一時期送っていたのだが、これは何を言ってもわからない――否、わかろうとしない――大人達にではなく、次世代を担う子供達に「本当のこと」を伝えたいという想いから始めたことであり、戦時中検閲が激しくなる中でほとんど唯一といっていいくらいにたくさんの小説を書き続けた太宰治にもこうした傾向が見られる。このような理解を踏まえたうえで児童読み物やそれらから想を得て作られた宮崎駿の一連のアニメーションを眺めていくと、どうも言い知れぬ寓意のスメルが馥郁と匂ってくる。この意味で「子供」とは大人以上の嗅覚を持っていると考えられる。そうしてなによりここで強調しておきたいのは、本作において「オルキャスト」が子供でなければ務まらないとされる理由がイーハトーヴ的に説明されている言質をとることができるところだ。それはウズという「バネ脚」の少年が、ユーリ達一行を引き連れて久しぶりに帰宅したアッシュへと歓喜のあまり「鉄砲玉のように」(下巻P83)ぶつかると表現されるシーンだ。一見するとなんでもないシミリのようにも読めるが、ここで重要になってくるのは「バネ脚」の少年が物の雑多なアッシュの部屋で「鉄砲玉」のように駆けている様をシニフィエの文脈でイメージできるかという点である。つまり、ウズは脚がそのもの「バネ」になってしまっているのだから、その動きは敏速であると同時に、物との接触も配慮して、どうしても敏捷さを落としていかなければならないのだが、心ははやっていた……この表現手法は宮沢賢治「永訣の朝」中の一節「まがった鉄砲玉のように」の明らかなバリアントではないだろうか。つまり宮部みゆきは、この『英雄の書』という小説を、単なるエンターテイメントの反復のなかに埋没させるのではなく、イーハトーヴの延長で書いていこうとしている姿勢がこの一文から読み取れはしまいか。つまりこのことは、「大人になんか、何もできるもんか」(上巻P74)の説明として「大人は、既にして多くの物語に染まりすぎておる」(上巻P152)があるように、様々な「物語」に踊り疲れた大人ではなく、何にも染まっていないがゆえに次世代を担うにたる無垢な子供こそふさわしいという本作の在り方全体に大きく関わってくる重大な描写となるのである。また作者は、なぜ大人にはダメなのかという一種の伏線を序盤で既に張ってもいる。それは兄・大樹の居所が知れずに友理子が気を滅入らせているという彼女の心理説明の描写の中でなのだが、何度も繰り返してきたように、友理子は特権的な「子供」であると同時に、メタ的に世相を反射した存在でもあるわけだから、「友理子の心に、ようやく〝現実〟が形作られてきた。それは岩のように硬く、重たい。その岩が友理子を押し潰している。友理子が、押し潰されていることすら感じないほど、完璧に」(上巻P31)における岩とは、友理子にだけ圧力を加えているというよりも、実際には大樹の起こした事件や彼の失踪のもたらした悲しみとは関係のない人達にとっても――それはフィクションから抜け出ている我々をも適用範囲としている――抑圧という名の重さを強いている。このような重さを強いられると同時に他者に強いる主体でもある「大人=善良なる人びと」は、本作において「あなたはお優しい。その優しさは、幼子だけが持ち合わせるもの」(上巻P236)の逆説として批判的に浮き彫りにされているのである。このことは、子供であれば必ず「こんにちは」というやり取りが生じるものであるのに、「法衣」のもたらす不思議の力で「伊藤品子」に変身したユーリは図書館の職員に「目を向けようとも」(上巻P348)されなかったところに見受けられる。ユーリはこのことをさほど気にせず、むしろほっとしてすらいるのだが、この「挨拶」の不在がユーリにとって都合がよく作用し、そして物語を効率的に語る要請からも大人同士での挨拶は省略された方がよいとされる風潮の導入というのは、明らかに「美しいフィクション」を書こうとする姿勢ではないことがわかる。では、宮部みゆきが描き出そうとしたものはなんだったのか……それは無名の地の殺伐とした風景を、経済的要因なのか、あるいは心理的荒廃からなのかはわからないが、我々の暮らす「現実」の延長にある未来――辿る末路であると解釈した場合に、意図が見えるような気がしてくる。すなわち無名の地とは、我々が正しいものと信じた果ての世界のメタファーではないだろうか。

 チャーリー・チャップリン『モダン・タイムス』における、人間が歯車に巻き込まれるシーンに含まれる強烈なアイロニーはもはや世界的に有名な話だが、本作において「咎の大輪」は「巨大な車輪」(上巻P225)と説明されており、それはやはり歯車を想起させずにはおかない。その証拠に、「歯車」を回す行為自体をここでは「作務」(上巻P217)と呼び習わしているうえに、世相の反射である友理子に「作務って、お仕事ってことですよね?」(同)とはっきり言及させた際に「交代の時刻」(上巻P218)が訪れ、「八時間労働? 三交代で働くということなのだろうか。夜間操業をする工場みたいだ」(同)という世相的理解が挿入される。このことから無名の地は労働の場を象徴しているように読めるし、そこで「作務」に従事する無名僧も、労働者と認めることができる。無名僧はそれぞれの顔に特徴がなく、皆同じ格好をしている。これは、「一般」という大きなシステムに埋没するあまり、えてして個人的な人生を見失いがちな「労働者」の普遍性を体現しているのではないだろうか。たとえばテレビドラマの「余命宣告」ものなんかを見ていると、労働者である主人公がいきなり余命を宣告されて、これまでの自分の人生とはなんだったのかと悔恨しながら過去を述懐するところから、いつも物語は開始されている(もちろん、例外もあるが)。つまり、その手の余命宣告ドラマにおいては、特別な主人公の人生に彼を悔悛させる過去が設定されているのではなく、「労働者」という極めて一般的な人生であると同時に、ほとんどそれしか選び取りようもないゆえに歩いてきた――否、歩かされてきた――道程を悔やむところから、ストーリーは描き起こされている。これと同じようなことが『英雄の書』でも行われており、「意志を体現するために作り上げられた些末な部品」(上巻P11)でしかない無名僧に、労働者が仮託されている風に読める。そうしてこの「無名僧」が背格好の非常によく似た「分身」と表現されるのは、「交代制」という言葉もあったように「人間」の代用がきいてしまうような世界であることを思えば、労働力を商品として扱う労働力市場の現場を諷刺的に描いているもののように読める。この「分身」というのは作中において友理子の不在の穴を埋めるための――物語を効率よく先へ推進させるための――装置としても登場するわけだが、この友理子の分身は友理子の内面の生き写しでもあるため、友理子自身にしか知りえない情報をも知っているというのは、そしてユーリとしての冒険に出ている間、つつがなく「友理子」としての任務をこなしてくれているというのは、どうもよくできすぎている。しかし、この友理子にとって、そしておそらくは作者にとっても明らかに都合のいい存在である「分身=ダブル」というのは、科学の裏打ちを必要としないでも、物語を語るうえでの経済的な要請から生み出された一つのロボットなのだ。なぜならそれは「友理子」であると説明されているにもかかわらず、その内部描写の説明はいっさいなされておらず、また読者もその必要性を感じていない。この時読者が期待を寄せているのは、まだ見ぬユーリの冒険と活躍であるのだから、友理子にとっては重くのしかかる現実であっても、読者にとっては「代理を置いとけばそれですむもの」として理解されている。このことは、「友理子」としての内面を描ききることが本作の主題でないゆえに生じた、そうして友理子には「事件を起こして姿をくらませた兄」がいるという重い現実を背負わされているのだということの理解をも棚上げにした、読者とのキャッチボールの結果だとも読めるのだ。要するにこのことは、昨今のサブカルチャー領域において、読者の意見を意識しすぎていたり、取り入れすぎていたりする作品が氾濫している有様なのを嘆いた宮部が、戯画的にそういった創作と消費の関連のしかたを皮肉って、主人公ではないが友理子ではあるという、なんだかよくわからないロボットを作中に登場させることで、スムーズにユーリを無名の地やヘイトランドへといざなうのである。作者は物語の先を書きたい、読者はユーリの活躍を読みたい。この商業的な遣り取りを通じて、分身はその内部に語りえない空白を生じさせて「善良なる人びと」に「善良なる人びと」自身の理解を難しくさせていき、そうして外見に特徴のない無名僧ができあがるのである。無名僧が無名であるのは、その大衆性ゆえのことである。そうして「善良なる人びと」の延長である無名僧が「咎人」とされているのは「英雄」に焦がれたためであり、この英雄を「善良なる人びと」の根幹をなす「善良」そのものであると仮定すると本作の理解がより深まるように感じられる。彼ら無名僧は英雄に焦がれたその罰として、無名の地という原風景にてチャップリン的な歯車を回し続けさせられる、その意味でのロボットだといえよう。友理子にとってその「作務」の様子を覗くことが「見学」にはならず「ある種の覚悟を問われているかのような、厳しいもの」(上巻P218)であったのは、「小学生」という特権的な身分が「善良なる人びと」の定義と論理から彼女を保護するために機能していたからであって、だからこそソレを見せつけられた際の友理子は「嘘でしょ」と目の当たりにした「現実」をこそ物語だとしたうえで、「人間は、自分で物語を作るんです! 創造して、想像して、作り上げるんです!」(上巻P230)と、彼らの生き方に嫌悪と反発を示す。友理子が無名僧の風貌を現実の彼女のクラスメイトに応用した際に「たとえるならば、クラスメイトがみんな自分と同じ顔をしているということだ。同じようにふるまい、同じようにしゃべり、同じように考える。喧嘩なんか起こらない。いじめもない。意見が食い違うこともない。/さぞ安心だろう。快適だろう。/でも、そんなに大勢「自分」がいたら、どれが本物の自分自身だかわからなくなってしまうんじゃないだろうか」(上巻P213)と抱いた疑問がそれだ。しかしこの友理子の子供ならではの反発も、大僧正によって一蹴され、説き伏せられる。その際、「我ら無名僧は、咎の大輪を押し続けることにより、人の世が求める嘘を供給いたします。流れを絶やさぬように、営々と働きまする。それは罪の贖いであると同時に、また罪を再生産することでもございます」(上巻P235)というように、ここでも「供給」「再生産」と経済の理解が応用されている。

 以上のことから、無名の地に「縛られし身の上」(上巻P202)である無名僧は、労働や電車のダイアグラム、病院の予約などといった時間に縛られる「善良なる人びと」の延長的存在であることがうかがえ、「一の鐘」を聞いて高揚した大樹に「人間らしさ」(上巻P11)が芽生えたというのも、逆説的にそれがない社会こそ「善良なる人びと」の論理なのだということが知れる。だからこそ、その「なれの果て」(上巻P238)である無名僧は本作において「咎人」とされるのである。そうしてその根底には、この「善良なる人びと」を「善良なる人びと」たらしめる論理こそが英雄であると同時に、退治すべき魔王でもあるというアンビバレントな二面性がどうやら頭をもたげているのがわかってくる。

 さて、ここまでで私は通常の論文でいうところの承のくだりを述べてきたつもりだ。起承転結の起にあたるのは冒頭から、「厳しい現実の情報こそが「英雄」という言葉の陰に隠れた退治すべき「魔王」であったために、オルキャストのユーリであれば耐えられる現実の「英雄」も、オルキャストがひっきりなしに現れる他のリージョンにおいては、「現実」に対する「友理子」が「子供」でしかなかったのと同様、まったく相手にならないどころか、そのせいで仲間からも置きざりにされる勇者なのである」とまとめたところまでということにしているが、私は承の部分では主に「人間」の代用がきく「労働者」という存在と、「多くの器が消費されてきた」(上巻P149)と傍点でもって強調されてもいる、作中に見え隠れする経済の原理について論じてきたが、このままでは起の部分で書いたような「魔王」「現実」という言葉の意味をよく理解いただけていないと思う。なのでここからは論を転へとすすめて、物語世界を俯瞰的にみながら、『英雄の書』を取り巻くと同時に人を惑わすものでもある「〈あるべき物語〉」(下巻P357)の是非を問うような考察をしていきたいと考える。

 日本三大奇書の一つとしても数えられる夢野久作『ドグラ・マグラ』は、今では一度読んだら精神をおかしくするとしてミーハーな読者層の眼を惹きつけている。この小説は記憶を失った青年が目覚めると隣室からすすり泣く女の声を聞くところから始まり、数ページ読み進めていくと作中に「ドグラ・マグラ」なる日記が登場し、それについて医師が口にした説明がそのまま物語の最後までを言い当てていることからあらゆる読者に「怪奇」という感想を抱かせしめ、かの江戸川乱歩をして「わけのわからぬ小説」と言わしめた作品なのだが、この小説が真に怪奇であるのは、どうもそういったストーリー性……一九三○年代という時節柄を考えれば、やや時代錯誤な言葉になるかもしれないが、すなわちエンターテイメント性とは切り離された部分にあるのでは、と私は愚考する。海野十三、大下宇陀児、鶴見俊輔、水沢周と、多くの解説者が読解に挑戦しているが、そのどれもが当を得た解釈とみなされない背景には、おそらくこの小説をエンターテイメントと並列に読む読者が多いからだろう。実際に、インターネット通販サイト「Amazon」の商品レビューなんかを読んでみると、作中のほとんどを占める小説内論文やら新聞記事やらを読み飛ばして、物語として進行している部分だけを読んでいるという読書もかなりいる。しかし、これだけでは『ドグラ・マグラ』を通して作者が伝えたかったことの一分も伝わらないのではないか。なぜなら、作者はこの小説を書き終えるのに十年もの歳月を費やしているのだ。そうしてこの小説を書き終えて間もないうちに死没していることを考え勠わせれば、まさに『ドグラ・マグラ』には夢野久作の思想の全てがつまっていると読んでさしつかえあるまい。たとえば序盤、目覚めたばかりの呉一郎の許へ若林医師が車に乗り付けてやってくる描写など、泰平の眠りを妨げた黒船が来航でもしてきたように感じられるのだ。つまりそれは、文明開化の到来そのものである若林医師を「私が、その怪事件の裏面に潜む怪魔人でございます」という風にとらえていることからも、「当たり前」と信じられる近代合理主義的価値観や科学といったものが浸透していくにつれて、変化してしまう人々の認識・心の在りよう・判断基準といったようなものをあてこすっているような作風に『ドグラ・マグラ』という作品を仕上げているのだということがわかる。この作品に対するあおりとして有名な文句「一度読むと精神がおかしくなる」というのも、このようにして解釈すれば、つまり人々が当たり前としてしまっていて再度疑いの眼を向けられることがなくなってしまった「科学」こそが間違いなのだという本作の説得力に呑まれ、世間の「当たり前」よりも「ちょんがれ節」に正しさをみいだし、その結果世間とずれてしまうことが「頭がおかしくなる」とか「精神を病む」とかされるものの正体なのではないか、という風に理解できる。実際に説得力あふれる、それでいて世間の認識とずれていることが窺えるセンテンスを拾ってみよう。角川文庫版、上巻の一九二頁には、次のような小説内論文が記されている。





吾輩……アンポンタン・ポカンは、アラユル方向から世界歴史を研究した結果、左のごとき断定を下すことを得た。

曰く……脳髄の罪悪史は左の五項に尽きている……と……。

「人間を神様以上のものと自惚れさせた」

これが脳髄の罪悪史の第一ページであった。

「人間を大自然に反抗させた」

これが、その第二ページであった。

「人類を禽獣の世界に逐い返した」

というのがその第三ページであった。

「人類を物質と本能ばかりの虚無世界に狂い廻らせた」

というのがその第四ページであった。

「人類を自滅の斜面(スローブ)へ逐い落した」

それでおしまいであった。





 ここでいう「脳髄」とは、もちろん今日では自明となっている、人間のあらゆる行動を統括する器官のことをさしているわけだが、以上の引用文にかぎっては、「脳髄」は「国家」のような、他をコントロールする立場にある、カーストの頂点の比喩とも読める。もしそうだとすると、夢野久作は「脳髄」という人体の一器官にとどまらず、広く社会に「罪悪」があるということを指摘しているのではなかろうか。人々が「脳髄」を信じるというのは、まさしく「英雄」に魅了されてしまったことを言い当てているのであり、細々とした「目に見える」制度には意欲的だが、ひとたび巨視的な見方が必要となってくるような体制的な問題に出くわすと、大衆は「目に見えない」問題が何かさっぱりわからず、あるいは卑近な問題の対処に忙殺される毎日のため目がいかず、どうしても三角形の頂点に頼ろうとするのではないだろうか。この社会契約論の簡易版、のような構図のはらむ問題性は、土居健郎『「甘え」の構造』ですでに指摘されて久しい。すなわち日本人は、「疑う」ということをあまりしないのだ。近年にわかに世相を騒がせている高齢者をターゲットに据えた詐欺なども、その根は「手口が巧妙」だとか「お年寄りだから」だとかいう理由よりも、もっと深いところにあるのだと思えてならない。

 そうして話を一気に「念歌」まで戻すが、宮部みゆきがここで主張したかったのは、以上述べてきたような私の論旨になど目を向けずに、純粋に「物語」を愛好してほしいというものだったのだ。これは、「一般人」、宮部いうところの「善良なる人びと」が気付いてしまえば、たちまちそれまで自分が順応していた社会との間に不和をきたしてしまうからだ。そうして自らの「リズム」を狂わされた人間のことを世間がどう思うかは、それこそ『ドグラ・マグラ』を読んでその毒気にあてられた人間を見れば明らかだろう。しかし問題なのはむしろその「リズム」の方で、大人たちがよくそうするといわれる「深く吐いて、吐ききって、少し止まって、思い出したように吸って、また吐く」(上巻P60)リズムを植え付けてしまったのが「健康診断」(同)という制度であったことに注目しないわけにいかない。さながらJ・K・ローリング『ハリー・ポッター』シリーズに出て来るヴォルデモート卿のように、口にするのも憚られるほど恐れられるというのは、逆をいえばその「恐れ=リズム」を生み出すのが「英雄」だということに他ならない。友理子の兄は「それに頭を下げていた」(上巻P61)。

 では、なぜ森崎大樹は「頭を下げ」るに至ったのかという考察にこれから入ろう。それというのも、大樹は友理子よりも「大人」だということが本作の序盤ですでに明かされているが、彼はまさに「大人」であるがゆえに「あんまりにも早く、あれに魅入られてしまった」(上巻P63)という風に読むこともできるのだが、その際に説得にあたったアジュの声を無視してのけたのは、どうもやはり浸透した資本主義経済に比べれば、マルキシズムなどの次なる思想は「とても弱い」(上巻P63)と、経済主義的な展開を示唆しているようにしか読めない。資本=英雄の正しさは、ここでも「そんなの常識だもん」(同)として、わかりやすい刷り込みによって常態化が徹底されている。

 このわかりやすさによる刷り込みの存在することこそが、まさにイーハトーヴ的理解のもとに本作が著わされている理由であり、作者は小説という形で、しかもはっきりとは言明しない形でそれをうったえるために、あるとんでもない物語を一介の女子小学生に接近させている。それこそが、本論の題にもなっているアパルトヘイト問題の導入である。アパルトヘイトとはご存じのとおり、WASP至上主義のような極度なバイアスのかかった価値観のもとに推進された隔離政策のことであるが、作中登場する「ヘイトランド」は、この「アパルトヘイト」と「ホームランド計画」からネーミングヒントを得ていることがすぐにわかる。なぜなら、「エピローグ」において前触れもなく唐突に登場する黒人の男がはっきりとそう言明しているからである。宮部は地の文におけるメッセージ含有性を放棄し、本作を書くにあたって本当に述べたかったことをこの男に語らせている。「昔、南アフリカ共和国には、白人たちが、そういうことをしてもいいと、信じてしまう、物語(略)が、流布していたのです」(下巻P398~399)この科白は、いま「当たり前」とされている「現実」が、果たして本当に――後の世に生きる人々からしても――正しいといえるものであるのか、という疑義をなげかけた、読者へのはっきりとした問題提起のように多くの方が感じていることだろう。とりわけここまで本論を辛抱強く読み通していただいた方ならばそう考えるものだろうと思う。実際に、アッシュも「何が正しく、何があるべきものなのか、見極める瞳を閉じるな」(下巻P365)と別れ際に言い送っていることからも、どうやらこの助言に更なるアドバイス、ヒントを加えるためにアパルトヘイトは浮上してきたようにも思える。……だが、宮部みゆきは「念歌」に先述したような「物語の意味に気付く必要はない」と言うようなメッセージ性を込めてもいたように、ここでもストレートに「アパルトヘイトが一種の虚構でしかない」ということを伝えるのではなく、わかりにくい形でひと手間くわえている。お気づきだろうか? この時点で友理子は「オルキャスト」としてのあらゆる権能を失っており、すでに「法衣」も纏っていない。「法衣」を纏わない友理子が「カタルハル僧院跡」を指して飛ぶのに失敗した際、彼女は「文字も読めなければ、会話も理解できない」(下巻P131)ために、アジュを通訳として現地の人と関わっていくのであるが、これの反復がエピローグにおける黒人男との一連のやりとりなのである。つまり、友理子――この友理子は「ユーリ」であったものであり、またこの先再び「ユーリ」となりうることを示唆されたものでもある、中間点の「友理子」である。つまりそれは、世相の反射を読み解くことのできる「友理子」――は「エピローグ」において、黒人の男から直接「アパルトヘイトの虚構性」について聞いているのではなく、間に「たどたどしい日本語」で喋る、「見た目は日本人と変わらない」「外国人」(下巻P391)を介させて、その「たどたどしい」通訳を仲介させることによって意味を汲み取っている。ここで肝心なのは、通訳が日本人ではなく、外国人であるということだ。宮部は「念歌」にだけではなく、この「エピローグ」においてさえも自分では直接語らず、はっきり言わず、そうしてやっとアパルトヘイトの虚構性について触れたかと思えば、それは日本語に不慣れな「通訳」を介したがためにはっきりと読者には伝わらないようなせせこましい工夫がなされていたのであった。宮部のこの姿勢は冒頭のエピグラフ「我を学ぶ者は死す」からその意味を汲み取ることができる。推理小説なども手掛ける一流のエンターティナーである宮部が「ネタばれという横紙破りの非礼」(下巻P403)をはたらいてまでして、なぜこの一文の引用にこだわったのかという答えは、すでに本論では明かしたつもりだ。つまりそれは「善良なる人びと」が本論のような読みを『英雄の書』に対してしてしまうと「リズム」を狂わされるからであり、そうならないようにするための工夫がある種逃げのようにも感じられる韜晦の手法なのであり、そちらについてはここまでで詳解してきたつもりであるが、それは下巻P360において「法」のしいた物語に人はしたがうしかないと諦観まじりにほのめかされていることからも窺える。「神」(上巻P397)の不在はデウス・エクス・マキナの否定をもたらし、「深秘」とされ「触れてはいけない謎」として置き去りにされるのは、作者もまた「法」にしたがうしかないためであり、「解答は、まだ得られません」(下巻P412)と述べているように、『英雄の書』は結局なんだかわけのわからぬうちにフィナーレをむかえるのである。以上を踏まえたうえで、『ローグギャラクシー』に火をふいた宮部が著わした本作のストーリーがいかがなものであったかを問われれば、それは万書殿内部の無味乾燥とした廊下のようであった、としか言いようがないだろう。なんとなれば、作者自身が解答を諦めるばかりか、問題を表面化させようとすらしていないのだから仕方あるまい。

 本論も文量がだいぶかさんできたので、そろそろ終えたいと思う。なんだか起承転結を切り替えスイッチのように使ってしまっているようで慙愧の念にたえないのだが、いよいよ結、まとめに入ろう。

 本作『英雄の書』に限らず、宮部みゆきの諸小説には、焦点となる人物が不在になることがたまにある。本作と似た構図を持つ『ブレイブ・ストーリー』では、主人公・亘の導き手となるミツルが「不在」であることが多く、また『英雄の書』『ブレイブ・ストーリー』の二作品と比べると内容も毛色も変わってくる『火車』という小説では、主人公の甥と結婚するはずであった女を探し出そうとするのであるが、この作品は推理小説テイストで書かれてもいるから、必然的に犯人として探偵主人公の前に現れて、最後には見事な名推理でもってその罪をズバっと指摘され地に屈しておめおめ泣く、というのがこの筋の事件モノのセオリーなんじゃないかと思われるのだが、なんとこの『火車』、推理小説の鉄則をあえて破るかのように焦点人物たる犯人が最後まで登場しないのである。いや、そこはやはりなにがしかの事件は起きるわけなのだからもちろん作中に名を変えて人生までも変えようと画策する狡知に長けた女は登場するのであるが、ミツルと違ってその焦点化の仕方は登場というよりも、主人公の推理や想像などによって補填的に語られていくだけなのだ。いちおう写真などで顔は描写されているし、声についても登場人物たちの回想などによって発されているのだが、それでも本人が主人公の眼に直接触れるのは本当に最後の最後で、しかもその肩にポンと手を添えて彼女を振り向かせるという大役は別の人物にゆずっており、彼女が首をこちらへ向ける、ちょうどそのタイミングで物語は幕を閉じているのである。これは推理小説では異例中の異例だろうが、犯人の不在といってもいい手法ではないだろうか。

 このような焦点人物の不在化は『英雄の書』でも認められる。本作においてはまさに友理子の兄・森崎大樹がその不在の焦点であるといえるし、その彼が上巻P254にてボロをだしてもいるとおり、実は無名僧のソラとしてユーリのそばにい続けるという伏線は随所に見受けられるが、そのようにして主人公の追い求めるべき人物が実はすぐ近くにいたという盲目性が本作の隠れた主題であるように感じられる。だが、『英雄の書』における不在化された焦点人物はもう一人いるのだということを忘れてはならない。この小説において最も大事な、そうして本論においても口を酸っぱくして何度も語って来た「英雄」こそがまさに、その不在性を見事に体現しているのだ。「英雄」の表でもあり裏でもあると説明される「黄衣の王」は、「あとがき」においてクトゥルフ神話のオマージュであることが明かされているが、それは畢竟すれば悪魔的なイメージとの関連でゲーム的「魔王」と結び付けて本作に登場させているわけだが、作中においてそれは「誰も〈英雄〉の相貌を知らぬのです。〈黄衣の王〉の相貌も知らぬのです」(上巻P251)とされているとおり、「悪者がわからない」という事態を生み出している。これは不在ではなく、あくまで「わからない」ということであり、また大樹が「〝(ゲート)〟であった」(下巻P11)ことも考え合わせれば、「英雄」とつながっている彼もまた「英雄」同様、宮部みゆき特有の不在化された焦点人物であると同時に、実はユーリのそばにいたのでそれは不在ではないという、つまり「ソラの正体の不明性」という形で「英雄の相貌の不明性」とトートロジーのつながりを持つ。すなわち「わからないもの」である敵を本作は邀え撃たねばならないわけだが、このことは石川啄木が「こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ」「腕拱みて/このごろ思ふ/大いなる敵目の前に躍り出でよと」の二句で「敵」を邀え撃つという「仕事」を望む意志を持っていたにもかかわらず、いざ「敵」が「目の前」に姿を現すと「はたらけど/はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る」ことしかできなかったことからもわかる通り、『英雄の書』における悪者・悪役といったものの正体とは、その類であるといえる。「ああいう英雄気取りは、何とかしないと」(上巻P407)などと言い触らしてしまうのが「社会科の先生」(上巻P408)であったことに我々は目を向けないわけにはいかない。「オルキャスト」の「ユーリ」ですら、「呼吸困難」とあるように、呼吸の「リズム」を狂わせるほどの悪者がそれなのだ。

 そのようにして「悪者」の毒牙にかかる大樹なのだが、彼は「黄衣の王」に支配されて同級生二人を刺してしまう。「大人」として周囲に認知されていた大樹がそのような軽率な行動に逸ってしまうのは、何も考えない「大人」に対する作者からのアレゴリーが含まれているのと同時に、もう一つの意図というか、メッセージがあるようにも思われる。それは、時に人は感情によって論理=「法」を超えなくてはならないということだ。たとえばアッシュは、作中にて既に友であるキリクはいないと割り切っているのかのようなことを言うが、ユーリに「今の黄衣の王の核になってるのはキリクなんでしょ?」(下巻P297)と難詰口調で問われた際には「お前の兄も入っている」(下巻P298)と大人げない皮肉で応じ、直後の展開では無駄と知りながらも、それでも「おまえはキリクだ。思い出せ。己がかつて、圧政に苦しむ人びとのために剣を取り立ち上がった男であることを」(下巻P317)と呼び掛けずにはいられなくなる。そこには目には見えない「絆」が確かに存在しているからであり、「乳兄弟」(下巻P103)としての歴史がアッシュの身体に流れていればこその機微なのだ。たとえばクラスメイトを刺す、というショッキングな事件を起こし世間の注目を浴びた大樹にしたところが、「毎日どころか、一日中、一時間ごとに考えてる」(上巻P332)家族を除いてしまえば、大抵の人は、「森崎大樹のことなんか、みんな忘れている。忘れて、普通の日常生活を送っている」(上巻P371~372)とあるように、「大樹が見つかろうが見つかるまいが、時間は流れる」(上巻P372)のが常だろう。しかし家族にとってはそう容易に流れ去るものでもなく、そしてそのことはキリクに対するアッシュの態度にもつながり、「でもあれは、空よ」(下巻P366)というユーリの発言へといたる。たとえそれが「天」と信じられているものであるということを知っていても、その名を背負った彼(大樹)との歴史を大事にする意味で「空」と名付ける。そのことは、「おまえの頭は、(から)ではないのか」(下巻P105)と言われたことへの反発作用として、無形たる無名僧を有名にさせることであり、それはまた「家族のこと、他人みたいに冷静に突っ放して考えるようになり始めてる」(上巻P339)がゆえの反動でもあった。このように不条理と思われることは、衝動で乗り越えるべきだとした作者のメッセージが読み取れる。

 以上までで見て来たように、宮部みゆきは『英雄の書』において、「英雄」を過信するきらいのある人々の心象を描き出そうとしている。そのことを「町並み」に譬えて「(町並みが)変わらないところが、友理子にはうっすらと怖く感じられた」(上巻P34)と言っているあたりにそれが窺われる。しかし、宮部はこの「変わらない」という人々の抱える問題こそが「魔王」であることをはっきり提起することはせずに、また「解答」も示すことができずにすごすごと「引き揚げ」(下巻P413)るにいたるのであるが、これはなぜなのだろうか。

 和ヶ原聡司のライトノベル作品『はたらく魔王さま!』は、現代の日本にファンタジー世界の魔王がやって来て、ファーストフード店でアルバイトをするという奇抜な発想のもとで書かれ、人気を博した(アニメも2013年4月~6月まで放送)。私が思うに、「法」にしたがうしかない「紡ぐ者」である宮部みゆきは、現代に潜む魔王の、居場所の特定ができたからこそ、そこに内在する様々な問題や解決策を指摘することができなかったのではないだろうか。すなわち、「魔王」が「はたらく」世界こそが「英雄」とされているリージョンでは、「英雄」を討伐してしまうような想像力など、言語道断なのである。

 このように本作を、本来のクトゥルフ的な理解の意味で多様化する種々のサブカルチャー・二次創作ものの関連の中で論じていくことこそが、「語り得ないもの」の見失われがちな「現代」において非常に重要な意味を持つのではないかと私は考え、なおもこうして書を繙いていこうと思っている。


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