お祭り準備期間。
「おーい、クオンジぃ!」
名前を呼ばれて俺は作業を止め、声のした方向へ向いた。
「依本さんか。一体なに?」
振り向いた先には、学校指定のジャージの上にサイズの大きなダブダブの白い無地のシャツを着た格好の依本さんが立っていた。
作業で邪魔になるからといつもと違う髪形の女子がいて、俺含め、クラスの男子生徒たちはワクワクしながら作業をしている。
しかし、依本さんの髪型は朝見た時と同じで少し残念だ。
いつも依本さんは短めの髪を頭の後ろで結んでいる。短い動物の尻尾か、もしくはちょんまげのようにも見え、無理してポニーテールにしましたというような髪形だ。
毎日その髪型なのを見ているせいか、他の髪型の姿なんて想像できない。
「友井が至急来たれ、だそうだ。こっちはアタシがやっておくから早く行って来いよ」
依本さんは俺が作っていた紙の花を取り上げて言った。
俺は喫茶店の入り口や内装、看板の飾りつけ為に、小中学校の入学式、卒業式や運動会の飾り付けでよく見かけられる白や赤の紙で作られた花を俺は大量に作成することを命じられていた。
「って、おいおいクオンジ、もう少し綺麗につくれねーのかよ?」
俺はすぐさま友井さん達の居る場所に行こうと思ったのだが、俺の作りかけの紙の花を見て依本さんがそう言ってきた。
個人的にはとても綺麗に作ったつもりなのだが、他人から見ればそうじゃないらしい。
依本さんは俺の作りかけの花を完成させると、机の隅に置いた。そして新たに紙を手に取る。
数枚の紙を重ね蛇腹状に織り込み、中央を輪ゴムで留めて左右の端を扇状に広げ、一枚一枚重なった紙をめくっていく。俺と作り方は変わらないのだが、やけに物の出来が違うように見える。
「ほら見ろ、こっちの方が綺麗だろ?」
均等に作られた依本さんの花はとてもよく出来ている。対する俺の方はというと、花びらの大きさが均等じゃなく、一言で言えば雑。大量生産ばかりに気を取られて、一つ一つのクオリティが低くなっている。
「くそ、東小松市一の造花職人、久遠寺が何たる失態!」
丁寧な一品を仕上げようと紙に手を伸ばすが、
「いやいや、お前早く友井のところに行けよ!?」
後ろ髪を引かれながらも、その場を離れ友井さんが居るであろう家庭科室へと向かった。
文化祭の準備が始まって三日。徐々に学校全体が文化祭ムードに包まれてきてある。
殺風景な階段の踊り場の壁には、各教室や部活で行う出し物の紹介をするポスターが隙間なく貼られていたり、教室の出入り口にはどこも未完成であるが看板が立てかけられている。
変化は校舎の中だけではない。校門付近にはどこかの部活が作った意味の解らないオブジェがいつの間にかにそびえ立っているし、校門正面には当日案内板として使われる予定の大きなボードも用意されている。
一日ごとに劇的に変化する校舎を展示会に行ったような気持ちで周囲を眺めながら家庭科室へと到着した。
「久遠寺久喜、ただ今参上ッ!」
「来たかッ!!」
家庭科室に入ると良い匂いが一番に出迎えた。次に俺を出迎えたのはジャージにエプロン、バンダナ姿といったマニアには垂涎物の格好をした女の子達だ。
雑用係として引っ張ってこられたクラスメイトの数人の男達はなんていい空間に居るんだ、畜生。
「良い匂い、これが喫茶店で出す料理のメニュー?」
チキンライスやコンソメスープといった簡単に出来て失敗の少ない料理が家庭科室の机に並んでいた。料理から放たれる良い匂いは腹の虫を刺激する。
「そうなんだけどねー」
歯切れの悪い友井さん。それにメニュー作成に携わったと思われる数人のクラスメイト達の表情もどこか暗い。
「ん? 何か問題があるのか?」
「これがメニューのサンプルなんだけど……」
料理をする時に前髪が邪魔になるのか、珍しくヘアピンで前髪を留めたバンダナにエプロン姿という委員長が一枚の紙を手渡してくる。バンダナを巻いてツインテールもそう目立たず、ヘアピンのせいで一瞬誰か判断するのに時間が掛かったのは内緒だ。
渡された紙に軽く目を通した。サンプルと言いつつ、カラフルに仕上げられておりこれが当日のメニューで使われても問題なさそうだ。
肝心のメニューの内容もたまに料理を作る程度の腕でも簡単に作れ、失敗の少ない料理が多く無難な内容になっていて問題はなさそうだ。
問題があるとすればメニューの華の無さとでも言うのだろうか?
日常的に料理を作る人間を準備当日組から集めてずっと厨房係として動かせるのなら、もう少し難易度の高い料理も作れるのだろう。
だが、準備組の方に俺含め、調理実習の時に手際の良かった人間の四割ぐらいは流れているし、当日組の料理を良く作る人と作らない人の割合は三対七という話だ。技術的にこれ以上料理の難易度を上げると当日組の料理上手い人たちの負荷が増えると思うのだが……。
そういった意見を友井さん達に伝えると、友井さん達は苦笑いを浮かべて首を振った。
「やっぱそうだよねー。最初はわたし達もそう思ったんだけど、結局クッキーと同じ答えでその考えはやめたんだー」
「あ、そうなんだ。これは余計なこと言っちゃったな。ごめんごめん」
余計な口出しをした事を謝る。メニューの事じゃないなら一体何が問題なんだろうか?
「ちょっと困ったことになってね……」
「困った事?」
「そう、当日わたし達、家庭科室使えそうに無い確立が高いんだよね。あの倍率じゃくじ引きはずれそうだし……」
料理を作る企画は俺達のクラスだけがやるわけじゃない。料理研究部がコンロを必要とするのは当然だし、掲示板に張ってあった出し物紹介で食事系だけでも両手でも数え切れない。
東小松高校、文化祭の決まりとして、場所さえ確保すれば数人でも申請して許可が下りれば出し物を出すことが出来る事になっている。
俺達のクラスは出し物が多くなるとその出し物ごとの責任者が必要になるし、色々と面倒だということから喫茶店一本に絞ったのだが、あるクラスでは五つも出し物を出すようだ。
文化祭の主役ポジションは文化部。影の薄くなる運動部もなんとか文化祭でも活動の知名度を上げようと出し物をするところばかりだ。文化祭は今年受験する中学生が下見にも来たりするし、未来の部員勧誘と運動部系も大変そうだ。
東小松高校の文化祭での恒例となっている出し物が、水泳部のダシ汁ラーメンと剣道部の手打ちチキンカツ、陸上部のドーピングドリンクが有名だ。
こういうように運動系の部活でも家庭科教室の使用希望があり、料理研究部が優先的にコンロをいくつか使い、残ったコンロを公平にくじ引きで決めるといった形になっていて、倍率は高い。
「あーそういえばコンロを求めて週直室を使って去年問題になったよね」
一人がそう言うと周りもその事件を思い出して頷く。
そういった騒動が起こるほど、文化祭時の家庭科室の人気はすさまじい。夏場、冬場の図書館に匹敵するほどだ。
「ほら、そういう事だからね、もし家庭科室取れなかったらこのメニューはきついかなって。それに取れたとしても出来た料理を教室まで運ぶの大変そうだしさ」
「確か家庭科室無理だったらカセットコンロだろ? 数台用意できるし、このメニューなら手際よくやれば大丈夫なんじゃ……?」
「実はハイスペックコックのクッキーには簡単かも知れないけど、料理苦手な人だって作るんだよ? それに今更かも知れないけど、このメニューでお客入るのかなぁ……?」
不安そうな表情を浮かべて言う友井さん。周りの子達も同じように頷いている。
文化祭で飲食系の模擬店は多く、いくら出来るだけ多く出し物を見て回ろうと思っても全員が全員全ての飲食系の模擬店を回れるはずも無い。
折角店を出すなら忙しくても繁盛したほうがいいと思うのは当然で、似たような模擬店が多く、その中で目立つ為にはどうするかを考え抜いた先の答えが友井さん達の質問なのだろう。
準備組はお店のメニューは当日組に任せていて、これをこうした方がいいという意見は言わないようにしている。
当日に動くのは当日組の人で、実際に動く人が動きやすいメニューにしたほうが良い。当日に模擬店から離れる人は自分がやる事もないので理想の高いことを言うだろうとの事で、準備組責任者から準備組のメンバーは次の事を言われている。
『メニューは当日組が決める。意見を求められない限りメニューの中身に文句を言わないこと――』
だそうだ。とはいっても明らかな手抜きの時は準備組を代表して実行委員さんが言ってくれるらしいし、その逆もまたあり得るから準備組も喫茶店の内装や外装造りに手は抜けない。
ギスギスしそうな条件であるが、実際は真逆。外からの声がない分好きに出来るし、自分達の美的感覚が信じられなくなったら当日組の意見を求めることでお互いに助け合いながら今のところ準備が出来ている。
この件に関しては文化祭実行委員の高坂達の手腕だろう。噂話だと準備と当日組と俺達と似たようなスタイルを取っていたクラスがあったのだが、お互いの作業にあれやこれやと口を挟み両者の関係がとてもギスギスしているようだ。
「確かに外にも飲食系出るし、お腹が膨れるたこ焼きとかお好み焼きのお店もあるし躊躇っちゃうよな」
「そうそう、ご飯系を出すとやっぱり外で作ってるお好み焼きとかたこ焼きのお店が強いんだよね。わざわざ校舎内の喫茶店でお昼食べるかなーとも思うんだぁー」
「かといって飲み物とお菓子だけ提供ではメニューが寂しくなっちゃうし、他のトコとかぶっちゃうしさ」
どうしたら良いかと今困ってるのさ、と家庭科室に居るメンバー達が一斉に頷いた。
「そこで隠れ料理の上手いクッキーに知恵を借りようとね。というかおぬし、なんで当日組じゃなくて準備組なのじゃーッ! その料理上手いスキルが死にスキルになってるじゃないかぁっ!」
「いや、そう言われても当日組人多かったし、当日色んなクラス見て回りたいからさ……」
「おぬしの御クラスに対する忠誠心はその程度かぁっ!」
「ちょっと友井さん、キャラが迷走してる、それ何キャラ!?」
何故かエセ武士キャラになり始めていた友井さんをなだめ、頭を回転させる。
「東小松市一のアイデアマン、久遠寺の腕の見せ所ね」
くそ、委員長め、そんな事言われるとあっと驚くアイディアを出したくなるじゃないか。
考えている最中、『なにそれ……えっ、そういう理由? うける〜久遠寺君馬鹿だ〜』なんて声も聞こえるが気にしないでおこう。
「雑用係のお前ら、お前らも知恵貸してくれよ」
いつこの試作料理を食べられるのだろうと、お預けを言い渡された犬のように寂しげな瞳で料理を見ていた男達を巻き込んで会議開始。友井さん達もその会話に加わる。
「それならもう回転数捨てていっそお喋りする喫茶店にするとかどうだ?」
「お菓子と飲み物でお客集まる?」
「ほら、手作りのムースとかデザート作ればどうだろう」
そんな感じで新しい路線で話は進んでいく。
「トッピング用の生クリーム使えば飲み物の種類も増えるし、デザートテイクアウトも面白いな、これなら店に入らずとも買ってもらえるし、お店のみで出すメニューを加えればいいんじゃない?」
メニューは同じような材料で簡単に作れるものを集めてた。
「かなり卵が必要だけどこれぐらいの中身あれば大丈夫じゃない? メニューの大半は前日作り置きして置けるしさ」
「久遠寺君流石ね、話聞いてるだけで美味しそう」
「え、と言うか久遠寺君ネタじゃなくって本当に料理するんだ……しかも滅茶苦茶詳しいし」
「なんで調理実習の時遊んでるやつの口からすらすらとムースやらジェラートやらアイスクリームの作り方が出てくるんだよ、お前はパティシエか!」
「いや、大抵混ぜて固める簡単なもの……」
そんな話をしつつ、なんとかメニューの内容が固まりつつあった。
「あ、試作料理完璧に冷えちゃったね、ちょっと温めなおさないと。久遠寺君も少し食べていく?」
すっかり冷えて湯気すら出さなくなった料理を見て委員長が言う。俺としてはすぐにも準備組の所に戻って、外装追加の旨を伝えようを思っていたのだが、その悪魔の囁きに負けて従うことにした。
料理が温まるのを待つ間、友井さんや委員長、他の当日組の人と話す事にした。
「へぇ、何人かは高坂にひぱられて別のトコの手伝いか」
「そうそう、俺達はまだ運がいいぜ。こう突っ立ってるだけで面倒な作業とかしなくていいし」
「じゃあ雑用もっと増やそうっと」
「そんなぁっ!?」
一人の雑用係の男と話していると友井さんにそんな事を言われ絶望の表情を浮かべた。すまん、余計な事を言った、悪気はなかった。
そう心の中で謝っておいた。
「それにしてもあの勘違い三人組どこ行ってるのよ?」
「まぁまぁ、あの三人居ないからゆっくり話し合いも出来たんだし、ホントメニュー決める時大変だったのよ?」
勘違い三人組、我がクラスが抱えるやや問題児だ。その三人組はヤンキーな自分達かっこよくね? なんて勘違いしている三人組で、一部の男子生徒からは有名児童図書『フーリッシュ三人組』の登場人物に体格や特徴も似ているので三人組になぞらえたあだ名をつけられている。
背が小さくやたらうるさいハチ子、痩せてるを通り越して骸骨のような細さの眼鏡のハカセ子、体格のよいモォ子。惜しむべくは中身が本家の三人組とは遠く及ばない三人組だ。
その三人組が馬鹿みたいに騒ぎながら家庭科室に入って来た。
「なになに、これが出し物の料理??」
「ちょっと八矢さん、山仲さん、屋田さん一体何処に行っていたの?」
委員長が少し怒り気味に三人に対して言うと、ヤンキーに憧れのある三人のテンションは上がる。
『うちら、ヤンキーじゃね?』
試作料理を作るという事を忘れ、別の作業に行ってしまっていたならばまだいいのだが、この三人組は意図的にサボっていたようだ。
全く謝る気がなく、それどころか盛り上がり始める三人に、流石の委員長も言葉を失い呆れたようだ。
「うわぁー、超平凡ーっ」
温めなおしていた料理を見たハチ子こと八矢がそう言うと、残る二人もそれぞれ好きな事を言い出し始めた。
「うーん、これでお客を集める気があるのか疑問……」
「……」
これは言ってはいけない事を言った。誰もがそう思った時、やはり気の短い一人の子が三人に食って掛かる。
「あっ? なに人様が一生懸命作ったものに、その言い方はなによ?」
「うちらは正直な感想を言っただけなんですけど?」
その態度の悪さに他の女子達もヒートアップする。こういう時こそ雑用係として引っ張って来られた男達がなんとかするべきだろう。
ちらりと目で男達に合図を送ろうとするも、あまり目にする事のない、女子達の口喧嘩に完全にビビッてしまっている男達。
情けないとは言えない。実は俺もそうだ。俺を含めた男達は一歩離れた位置でオロオロとヒートアップしていく口喧嘩を見守る事しかできない。
「おい、久遠寺、なんとかしろよ」
「なんで俺が?」
「な、なんだかんだで器用なお前なら、なんとか出来るって。マジこのままだと怪我人が出るって!」
人任せとはなんと情けない男達だろうか。いや、俺も指名がなければ人任せにするつもりだったが。よし、こうなったら俺がなんとかしてみよう。
「ちょっといただきます」
熱くて口の中火傷しないだろうか……と躊躇してしまったが、菜箸で一すくいチキンライスを手の平に乗せて口に運ぶ。
なんの特徴もないチキンライスの味だ。少し水っぽい感じもする。
「うん、おいしい。けど、ちょっと水っぽいかな。野菜の水分だと思う。野菜を炒める時にもう少し水分飛ばせばいい感じになると思うよ」
後ろでなにやら男達が『おい、馬鹿! 火に油!』なんて小声で言っているが気にしないで置こう。
「ちょっと、久遠寺君もそういう事言うの?」
一人が不機嫌さをあらわにして俺に詰め寄ってくる。正直怖い。
「やめなよ、久遠寺君は……」
頭に血が上っている準備組二人の女の子以外の子は、俺の話をしっかりと聞いていてくれて、俺のフォローを入れてくれる。
「なんで部外者の前髪が居るんですかー? あ、やっぱり噂は本当だったんですねー。委員チョーも趣味悪いよねー」
ゲラゲラと笑いながらハチ子は俺にそう言ってくる。一部ではそういうあだ名が俺に付けられているとは知っていたが、実際に面と向かって言われるとショックだ。
「その言い方はないんじゃないのかなぁ?」
時折流れる俺と委員長のカップル疑惑の話がハチ子の口からあがった時、怒りを露にしたのは思いがけない人物からだった。
「桜花と久喜君が付き合っているかは知らないけど、それが仮に本当の事だったとしても、桜花の趣味が悪いと言うのは許せないし、そうやって人の気持ちを否定するような事は言っちゃいけないと思うんだ」
いつもふざけている印象の友井さんが眉間にしわを寄せ、ハチ子に食って掛かる。その雰囲気に先ほどまでヒートアップしていた準備組の二人もクールダウンしているほどだ。
委員長の事をかすがちん、俺の事をクッキーと呼ぶ友井さんがあだ名でなく名前で呼んでいることから、ハチ子への怒りは相当なものなのだろう。
「それに部外者の〜っていうけど、久喜君はちゃんとアイディア出してくれたし、お店のほうもそのアイディアに合わせるようにしてくれるって言ってくれたんだよ。それに貴方達みたいにただ『平凡』とかわたし達の努力を無駄にするような感想じゃなく、料理をしている人の目線から次はこうした方がもっと良くなるんじゃないかな? って感想も言ってくれた。面倒だから、不良に憧れているからっていうくだらない理由でサボる人たちよりもずっと役に立っているよ」
「は? チビなに偉そうに説教垂れてんの?」
脅しでハチ子が調理台の脚を蹴る。友井さんは怒っていたとはいえ、殴りかからずに言葉で攻めるほどには頭は冷えていた。それ故に力に対する脅しに軽く竦んでしまう。それを見逃すハチ子達じゃなかった。
体格で縦も横も、厚さでも勝るモゥ子こと屋田が友井さんの肩を押す。本人的にはそう力は入れてないのだろうが、軽い友井さんはバランスを崩して大きく後ろに押される。そして押された方向が不味かった。
「あっ!」
調理場では暴れたらいけないというのは常識だ。調理場にはかなり危険なものが数多くある。包丁などは言うまでもなく、調理器具には刃物は付いていなくとも、勢い良く身体を掠めれば凹凸で皮膚を切ってしまうものだってある。それに危険なのは器具だけでない。人が気持ちよく浸かれる温度を明らかに超えたお湯だってある。
友井さんの押された方向には、騒ぎが始まるまで温めていたスープの鍋があったのだ。
モゥ子が友井さんに手を出そうとした時に咄嗟に俺の手が伸び、友井さんを引き寄せる事は出来たのだが引き寄せた反動で俺と友井さんの位置が入れ替わってしまった。
「ッ〜〜〜!?」
声にもならない。熱いというより痛いという感覚が左膝から下に駆け巡る。耳には金属鍋が地面にぶつかった大きな音が今でも鳴り響いている。
『だっ、大丈夫!?』
俺は即座にズボンをたくし上げられ、真っ赤になった足にボールで何度も水を掛けられた。
「く、久喜君、ご、ごめん!」
真っ青な顔して俺の足と顔を覗き込んでくる友井さんに俺はぎこちないながらもなんとか大丈夫だと答えられた。
しばらくすれば処置の甲斐あってか、激しい痛みも治まった。
改めて見ると家庭科室の床は大惨事だ。
スープや水でグッチャグチャ。スープに入っていた玉葱や人参が浮かんでいるのもより酷い印象を与える。
「ちょっと貴方達ッ!」
委員長がそう言って三人組へ振り返った時、そこには誰も居なかった。
「あ、あいつらは皆が久遠寺に気を取られてるスキに逃げていったけど……」
『見てたなら止めなさいよ!』
重要な行動の証言なはずなのに周りから一斉にブーイングの嵐。言われた男はしゅんと肩を落とす。
いくら男でもあんなことがあったすぐ後に、三人の足止めなんてなかなか出来るもんじゃない。きっと俺がその立場でも見ているだけしか出来なかっただろう。
「まぁまぁ、誰も怪我しなくてよかったよ。折角の料理がこうなっちゃったのは残念だけど、人が集まる前に片づけをしよう」
『お前が怪我をしているんだ!!』
その場をなんとかまとめようと口を開いたのだが、見ていただけの男よりも周囲の突っ込みの声が大きかった。ひどいものだ。
「なにがあったの?」
騒ぎの音を聞きつけて、隣の教員室で仕事をしていた家庭科の教師が飛んできた。流石にごまかすことが出来ないので正直にあった事をすべて話した。
「……えーっと、久遠寺君の火傷は腫れちゃうかも。保健室で処置してもらったほうがいいわね。誰か久遠寺君を保健室に」
「じゃ、じゃあわたしがっ!」
「友井さんは駄目よー、詳しい話聞きたいし、お説教だから」
「は、はい……」
責任を感じている友井さんが手をあげるが、友井さんは事情聴取&お説教で残らなければならないようで、代わりに委員長が俺を保健室に連れて行くことになった。
「あーあ、とんだ大事になっちまったな、委員長」
「そ、そうね……」
委員長は俺の後ろをオロオロと付いてきている感じだ。家庭科室を出たすぐに肩を貸そうとしてくれていたのだが、肩を借りなければ歩けないという状態でもないし、何も知らないやつがそのシーンを見て騒ぎ立てるのが目に見えたから丁重に断り、自分の足で歩いている。
特に歩いてて違和感があるとすれば濡れたジャージのズボンが気持ち悪い、ぐらいか。換えのズボンもないので処置が終わったら一足早く制服に着替えるとしよう。
「それにしても驚いたな、友井さんでもキレるんだな……」
「その、久遠寺君、ごめんなさい」
「へっ?」
唐突に謝ってくる委員長。恐らく委員長の事だから騒ぎを止められずに結果、俺が火傷したことを気にしているんだろうな。本当に真面目な子だ。
「別に委員長が謝ることじゃないって。今回こうなったのはたまたまそうなっちゃっただけなんだって、運が悪かったとしか」
「そういうことじゃなくって……」
「あーあ、それにしても残念だな、あのコンソメスープも美味しそうだったのになぁ……はっ、ジャージを舐めればまだコンソメスープが染みてるからきっと!」
「もうっ……」
俺の馬鹿げた行動に委員長は苦笑を浮かべた。これで少しは委員長も元気になっただろうか?
そんな感じで委員長と話しながら歩いていると、目的の保健室はすぐだ。
「失礼しまーす」
保険室の扉を開けると、保健室は大渋滞だった。
慣れない作業で怪我をする生徒が多いのだろう、いつも暇そうにしている女の養護教諭が今回ばかりは忙しそうに処置に追われている。
「少し待つみたいだけど大丈夫?」
「あぁ、でもこんなに混んでるなら別に処置しなくとも……」
「それは駄目よ!」
委員長にそう言われたので俺は大人しく入り口近くの椅子に座り、順番を待っている。委員長もぼうっと待つのは苦痛なのか、壁や窓に張られているインフルエンザ予防の方法が書かれたプリントなどを眺めている。
俺は火傷がどうなっているか気になったのでズボンをめくりあげて患部を確認することにした。
「ほぉ、これは見事な……」
脛の横側にとても大きな水ぶくれ。ここまで大きい水ぶくれは久しぶりだ。大きさは五百円玉ぐらいの大きさで細長い状態だ。思わず水ぶくれを潰したくなる。
「……わわっ」
弄っていると爪か何かで水ぶくれを破いてしまったんだろう、そして思いのほか大量の水が出て驚く。
「ハイ次ー」
ようやく俺の番かと、委員長と一緒に養護教諭の目の前の椅子に座る。人の付き添いで立ち寄る事はあっても、自分の処置で立ち寄る事は少ないので緊張する。
「お、久遠寺か、珍しいな。何処を怪我した?」
付き添いでよく立ち寄るので名前を覚えられていたらしい。
いつもは暇そうにぐでっとしている養護教諭もここのところ怪我人が多く、忙しいらしく疲れを隠し切れないようだ。
「火傷しました」
「火傷? なにやってたら?」
「スープの入った鍋こぼしちゃって、その時に」
緊張しながらもありのままの事を伝えると養護教諭の表情が変わった。
「おいおい、なに暢気に待ってたんだよ、それならそうと早く言えよ。カッターで指先切っただのよりもよっぽど重症じゃないか。まったく、これぐらいの怪我でようやく保健室頼れってんだ。過労死しちまうだろーが、まったく!」
さらりと問題発言をする養護教諭だが、なんだかんだ言いつつしっかり処置してくれる面倒見の良い姉御肌な性格から人気のある人だ。
「おぉ、これはまた派手にって、おい、久遠寺、お前水ぶくれ破いたな?」
患部を見て養護教諭はそういった。
「つ、つい出来心で」
「水ぶくれの患部の中の水は傷口にやさしいから無理に破くなよ? まぁ、これだけ大きいとどちらでもわからないけどな。ちょっと消毒してスプレーするから染みるぞ?」
手際よく処置が終わった。念の為だと患部にガーゼを張られたのだが、このガーゼ一枚でかなり大げさに見えるのは気のせいじゃないだろう。
「よし終わり。しばらく痛むと思うが我慢しろよ?」
「はーい」
養護教諭にお礼を言うと、保健室を後にした。
「あっ」
保険室の扉の向こうで待っていたのは友井さんだった。
「じゃあ私、一応家庭科の先生に報告して来るね」
気を利かせたのか、委員長が俺の火傷の状態を報告に行った。
「その……火傷大丈夫?」
「うん、全然平気。逆にこんなんで保健室に来るなって言われちまったよ」
友井さんは委員長以上に責任を感じているはずだから、本当の状態を言って更に責任を感じさせる必要はない。俺は軽い調子で答えると、友井さんの表情が明らかに安堵の表情に変わった。
「そっかぁ、大きな火傷じゃなくって良かったぁ。それと久喜君、ごめんなさい、それとありがとう!」
勢い良く友井さんは頭を下げる。
「わたし、思わずかっとしちゃって家庭科室がどんな場所か忘れちゃってた。小さい頃から言われてる事なのにね、それで久喜君に怪我させちゃったなんて本当に……」
「別に気にしなくとも……とりあえずこの場合はどういたしましてって言っておくべきなのだろうか?」
「う、うぅーん、どうなんだろう?」
「あ、知ってる? 水ぶくれの水ってね……」
先ほど養護教諭から聞いた話をそのまま友井さんに話しつつ、家庭科室へと向かう。
「あ、そういえば友井さんはどうだったの?」
「わたしかー。家庭科の先生に怒られちゃったよ。家庭科室では暴れない! ってね。まぁわたし含めウチのクラスが期間中の家庭科室への出入り禁止にならなかったのは救いかなぁー」
「確かに期間中学校で料理の練習できないのは痛いよね」
その後、家庭科室で俺達は家庭科の先生から軽い注意を受けた。丁度、家庭科室を借りていられる限界の時間になったので俺達は揃って家庭科室を後にした。
「とりあえずお店は今日のアイディアどおりでやってみるし、こっちでもレシピ探すけど、久遠寺君もなにかいいメニューあったら教えてね?」
「りょうかーい」
当日組は家庭科室の使用許可時間が終わったので各自でレシピを探すために図書館へと向かうらしい。
委員長達は学校の図書館ではなく、外出許可を貰い、私立図書館へ向かうと言っていた。流石に俺は当日組ではないのでそこまで首を突っ込むわけには行かない。
濡れたジャージを着替えるために教室へと一度戻り、制服に着替えた。
「やっべ、そういえば頼まれていた作業、依本さんに押し付けっぱなしだ不味いなぁ……」
すぐに戻れるだろうと思っていたのだが、思いのほか時間が経っており、その間ずっと俺の代わりに紙の花を作ることになっている依本さんの機嫌を思うと怖かった。
恐る恐る作業場所に戻ると誰も居ない。
「あっちゃー、やっぱり怒っちゃったかなぁ……」
机の上には造りかけの花がぽつんとあるだけで、依本さんの姿はどこにもない。
「やべーな、あとで謝らないと」
「誰に謝るんだ?」
「そりゃ依本さんにってぇ!?」
背後を振り返ると依本さんが立っていた。俺は思わず後ずさった。
「ごめん! 決して遊んでたわけじゃないんだ! これにはわけが!」
「別に怒っちゃいねーよ? 早く花造るぞ、今日中にダンボール三箱一杯にしろってお達しだ」
「うへぇッ!? 造れるだけでいいって話じゃなかったの!?」
まだ一箱半だ。これでようやく半分とは涙が出てくる。
「なにか当日の方で変更があったらしくてさ、さっきこっちの責任者がそう言ってきたぞ?」
あっれ、これ明らかにさっきの決定のことだよね、これもしかして自分で自分の作業量増やしてる?
「そんな事より、向こうでなにかあったんだろ?」
花を造りながら依本さんが聞いてくる。依本さんは俺の代わりに作業進めててくれたし、話しても問題ないだろう。
「それが……」
家庭科室であったことを依本さんに告げた。
「あぁ、あいつらか……アウトローがカッコイイと思っている残念なヤツらだよな」
「まったく、本家三人組の爪の垢でも煎じて飲ませたいぐらいだよな」
「本家?」
きょとんとする依本さんに三人のアダ名を話してみたのだが、どうもピンと来ないといった表情を浮かべている。
「あれ、依本さん読んだ事なかったんだ。それじゃ解らないよな」
いくら有名な児童図書といっても全員が全員それを読んでいるとは限らない。多少驚きはしたものの、依本さんにアダ名のもとになった三人組の話を説明した。
「へぇ、そうなんだ。そういう本って他のヤツは絶対読んでいるのか?」
「いいや、好き嫌いあるから全員が読んでるって事はまずないと思うよ。俺は漫画で簡単に読める歴史の本も読めば、考古学者の大冒険の小説も読むし、面白ければジャンルは問わない感じだな。中には依本さんと同じで名前ぐらいしか知らないって人も居るし、おかしくはないね」
「そ、そうだよな……」
明らかにほっとしたような表情を浮かべた依本さん。有名児童図書を読むことがステータスなんてわけないのに。面白い人だ。
「そういえば足は大丈夫なのかよ?」
「大丈夫っぽいね、数日間は風呂とか染みそうだけど」
「それは大変だな」
依本さんは完成した花をダンボールに投げ入れながら笑った。
最近はずいぶんと近寄りがたい雰囲気がなくなったと思う。俺の他にも岸枝や馬場と話している姿も見るし、俺達に比べてやや頻度は減るが、他のクラスメイトとも話していた。もしかしたら依本さんは人見知りをするタイプなのかも知れない。
勘違いされやすい口調と人見知りもあってか、これまでがうまくいっていなかっただけなのかもしれない。これから少しずつ、クラスに馴染んでいくのだろう。
「それにしてもこれ、完成するのかねぇ……」
「するのかって……面倒だけどやらなきゃいけねーだろ?」
二人で話して気を紛らわせながら作っているのだが、終わりがとても遠い。
作業に心折れかけながら愚痴ると、依本さんも飽きているのだろう、やや疲れた声色で答えた。
「じきに岸枝とか馬場らが様子を見に来ると思うし、奴らも巻き込もう!」
「岸枝とか安達はまだ役に立ちそうだが、正直馬場は役に立つのか?」
「大丈夫だ、単純作業にこそ、ヤツのポテンシャルは最大限に発揮されるんだ。折る、留める、開くのまさに単純作業。きっと馬場なら救世主になってくれる!」
依本さんとそんな馬鹿話で盛り上がっていると、教室の扉が開いた。
「どうだー? 進んでるか?」
「皆様の期待に答えて俺、馬場、参推!」
ナイスタイミングと言うべきか。岸枝と、参上と推参がごちゃ混ぜになってしまった残念な馬場が様子を見に来てくれた。
「おぉ、心の友よっ!」
俺は即座に馬場を確保。無理矢理俺の座っていた椅子に座らせると馬場に紙と輪ゴムを握らせる?
「えっ? えっ?」
「アナタトテモ運ガイイヨー、コレマデノ最高記録ヲ超エレルカネー?」
「よぉーい、スタート!」
依本さんがそう言うと、何も解らない馬場の挑戦が始まった。
……結果を言うと、人を使って楽をしようなんて考えない方が良いという事だ。
真面目にやれば、その倍以上の数の花が作れていたと思う。
馬場達とほぼ遊びながら作ったせいで、過ぎ去った時間の割には完成数が少なかった。
岸枝と馬場が別の場所に連れて行かれた後、現実を見た俺と依本さんは半泣きで花を作る事になったのだ。




